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2020/01/01 00:00
[フリッショフ・シュオン] |
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2019/12/31 19:30
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2011/04/10 19:56
もしキリストがキリスト教徒にとって現前の真理、つまり、真の現前、唯一の神の真の現前であるならば、反対にムスリムにとって預言者は真理の現前であり、彼のみが純粋で全的な真理、真理そのものを現すことになる。これが、他の言説に目を向けないムスリムにとって、ムハンマドが「諸々の使徒」の中で最も偉大なものである理由である。「この真理、この預言者」とムスリムは主張しているようなものである。その一方、キリスト教徒にとって、反対に真理はまったく神―人の無比性に依存している。 |
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2011/03/27 17:22
絶対者の救いの顕現は真理でも現前でもある。しかし、それは排他的な仕方であれかこれかなのではない。真理としてそれは現前を含み、現前としてそれは真理を含むからだ。そういうものがすべての神現というものの二重の本質である。それゆえキリストは本質的に神の現前の顕現であるが、しかし彼はそのことによって真理でもある。「私は道であり、真理であり、命である」。絶対者がアプリオリに現前ないし真理であるならば、絶対者の顕現を通して以外に、誰も絶対者の救いの近さに入ることはできない。 |
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2010/08/17 20:04
祈りの他の次元は、一方で人間は死すべき存在であり、他方で不死の魂を有するという事実から生じる。人は死を通らねばならない。そして結局の所、神の御手にある永遠に関わらなければならない。 |
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2010/08/16 18:05
人は、自らの全てをもって神に見えなければならない。なぜなら、神はすべての存在であるからだ。これが、「すべての力でもって」神を愛せ、という聖書の命令の意味である。 |
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2010/08/08 19:19
「あなたがたの内罪を持たない者のみが、まず彼に石を投げよ」。私たちはすべて同じ罪深き実体であり、このはれ物である悪に感染しやすい物質で作られている。その結果、私たちは、疑いなく間接的ではあるが現実的な仕方で、悪に参与している。あたかもすべての人が自らすべての罪を部分的に背負っているかのようである。この場合、罪は宇宙的偶然として現れる。正確に大きな尺度におけるエゴのように。厳密に言えば、エゴのない人は罪がない。その人は、そのことによって、あたかも風のようである。誰も「どこから来てどこから来るのか言え」ない。もし神のみが罰を与える権利を持つなら、それは神がエゴを超えているからである。憎しみとは、神の座に自らを置く傲慢、人間共通の悲惨を分有していることの忘却、私たちのものである「我」に何か絶対的なものを宛てること、を意味する。彼は、多くの反動やもつれによって成る人間の実質から、「我」を区別しているのだ。人間が、「我」の上に立つ、もしくは立ちうるかぎりにおいて、神が時折罰する権利を与えることがあるというのは真実である。しかし、神の道具となるということは、人を憎しむということではない。憎しみにおいて、人は「原罪」を忘れ、そのことによって、ある意味で、人の罪を自ら負う。それが、愛すべき私たちの敵を憎む時でさえ、私たちは自らを神とする理由である。他人を憎むということは、神のみが完全であり、神のみが裁き手であるのを忘却することである。健全な論理として、人は「神の内で」そして「神のために」のみ憎むことができる。私たちは「不死の魂」ではなく、エゴを憎まなければならない。他のなにものでもない神を憎む人をその限りで憎まなければならない。まとめると、私たちは神への憎しみを憎むべきであり、その魂を憎むべきではない。 |
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2010/07/24 20:09
もし受肉が神の「下降」を意味するとすれば、キリストは創造の全体と等価であり、ある仕方でそれを包含する。彼は第二の創造であり、第一のそれを浄化し、贖う。彼は十字架によって、存在の悪を引き受ける。この悪を引き受けることができるために、必然的に神は存在となる。創造は、必然的に神からの分離であるがゆえに、十字架はどこにでもある。存在は自らを肯定し、喜びを通して開花する。しかし、喜びは、神をその目的とするのでない限り、罪となる。すべての喜びは、その存在の本質によって神へと向けられている事実において、形而上学的な口実を含むとはいえ。すべての罪は十字架の下で打ち砕かれる。しかし、人は盲目の欲望のみによって成るわけではない。彼は、神を知るという智を享受している。人はすべてにおいて聖なる目的に気づき、同時に「十字架を負い」「もう一つの頬を差し出す」のでなくてはならない。つまり、存在の牢獄の内的論理さえ超えなければならない。その論理は、この世の目には「愚かさ」であるが、この牢獄の世界を超えなければならない。それは「垂直的」すなわち「天上的」でなくてはならない。「水平的」すなわち「地上的」ではなく。 |
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2010/07/24 10:41
この二つ、一性と多様性は共に、それ自身を顕すことができなければならない。しかし、二つの顕現は必然的に相対的なものであり、一方が他方を制限する。ここから結果として、一方で多様性は一性を廃止することはできず、一性もしくは唯一性はそれ自身の存在の領野において多様性と矛盾する。いいかえれば、唯一性のすべての顕現において、それを補完する多様性が維持されねばならず、事実、独特の事実は部分においてのみ生じるのであり、宇宙全体においてではない。一定の事実は、その事実が存在することにおいてではなく、一定の環境にとって神を表現する限りにおいて独自のものである。しかしこの存在は、象徴を廃止するのではなく、同じ平面ではあるが、その独自の事実が生じる枠組の外でそれを繰り返す。聖なる言葉を伝える存在は、その神意の領域の内側において一定の啓示の唯一性を廃止しないが、この領域の外側で、神の言葉の顕現を繰り返す。それゆえ、多様性は、唯一性の形而上学的に必然的な顕現を廃止することはないが、特定の枠組の外では、それと矛盾し、その結果、創造されざる、非顕現の言葉のみが、絶対的唯一性を持つことを示すのである。 |
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2010/05/05 18:42
唯一の真理があるのだから、唯一の啓示、唯一の伝統だけが可能であると結論せねばならないだろうか? これにはこう答える。まず、真理と啓示はまったく同等ではない語である。なぜなら真理は形を超えており、他方、啓示もしくは伝統は形から成り、形の世界に属するからである。定義上確かにそうなのだ。ところで形について語ることは、多様性、すなわち多数性について語ることである。形の存在と本性の根拠は、表現であり限定であり差異である。形の中に入るものはまた、数の世界、すなわち多様性の中にも入る。形式原理は――聖なる可能性の無限性に霊感を与えられて――この反復へ多様性を与える。たしかに、私たちの人間世界には唯一の啓示ないし伝統のみがあり、私たち人間によって知られない、あるいは知ることすらできない他の諸世界において多様性が実現していると考えることはできる。しかしこれは、真理の形の違いを決めるのは受け入れる人の器の違いであるという事実を理解しそこねている。何千年もの間、人類は、多かれ少なかれそれ自体で完結している多くの完全な人間性として形作られた、幾つかの根本的に多様な支流へと枝分かれしてきた。精神的な器の存在がこれほど違い、これほど独自であるということが、一つの真理の様々な屈折を要求している。これはつねに民族の問題というわけではなく、非常に多様ではあるが、にもかかわらず全体として彼らを十分に同質の精神的器とする心理的諸条件に従属している人間集団の問題であることを明記しておこう。この事実は、個人をその集団の枠組から飛び出すことを妨げないけれども。というのも、人間集団は決してこのことについて絶対的なものではないからである。そうであるならば、様々な諸啓示は決して相互に矛盾しない、なぜなら、それらは同じ器に適用されておらず、神は決して異なった性格を持つ二つ以上の器に同じメッセージを送らないからである。これはたとえれば、形式的に不一致である諸次元に対応している。矛盾は、同じレベルに置いたものの間でのみ生じる。諸伝統の見かけの諸対立は、言語や象徴の違いのようなものである。矛盾は人間の器の観点のことであり、神のそれではない。世界における多様性は、聖なる原理からの隔絶の結果である。創造神は、世界が存在すると同時に存在しないことを意志することはできない、ということなのだ。 |
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2010/04/25 19:13
ユダヤ教について特徴的であるのは、それが選民とのパートナーとしての神に強調点を置いているところだ。両者をつなぐものが律法である。律法に強調点があると言ってもよい。神とイスラエルの間に据えられているので。イスラエルが神の民であるとすれば、神はイスラエルの神である。その契約はシナイの律法によって封印された。神とその民の間のドラマは、宇宙のリズムとすべてのものの絶対への還元という二重の観点から、そのすべての両義性と最終的な栄光とともに、アートマとマーヤーのドラマを反映している。 |
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2010/04/24 20:27
「永遠哲学」という語は、ルネッサンス以後に出現し、ネオ・スコラティシズムにおいてよく使われているが、根源的普遍的真理、それゆえ形而上学的原理の全体を意味する。それらの公理は何か特定のシステムに属していない。すべての宗教の本質を表す際、この語を「永遠宗教」と同じ意味で使うこともできる。これは全ての礼拝形態、全ての祈りの形式、そしてすべての道徳体系の本質を意味する。ちょうど、「永遠の智慧」が真智の全ての教義、全ての表現の本質であるのと同じことである。私たちは「哲学」より「智慧」という語を好む。後者はより間接的であり、加えてそれは完全に世俗的で、しばしば常軌を逸した思想体系と連携する考えを喚起するからである。 |
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2010/04/23 20:12
『ヒンドゥー教研究序説』は、その諸目的の中に、東洋の知の研究を開くために必要な知的基礎を提供するというものがあった。ヒンドゥー教研究は、『ヴェーダンタによる人間とその生成』に引き継がれ、そこではヴェーダンタに基づく人間の確立という特定の観点が取り上げられている。ルネ・ゲノンが言うには、彼の目的はすべてのヴェーダの教義の体系的解説(「それはまったく不可能な仕事だ」)ではなく、この教義の特定の点について思考すること(この場合は、のちに形而上学の他の側面を熟考するために人間を定義すること)である。 |
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2010/01/23 20:54
この本は1921年に出版された。いくつかのトピックは1925年12月17日にソルボンヌ大学での講義(東洋形而上学)で取り上げられた。4部からなる。 |
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2010/01/16 14:41
ルネ・ゲノンは、パリから160キロほど離れた中央フランスの一都市ブロワで生まれた。当時のほとんどのフランス人と同様、ローマ・カトリック教徒の家系である。彼の家族についてはあまり知られていないが、彼の父はおそらく建築家であった。1904年まで、ゲノンはパリで学生として過ごし、数学と哲学を集中的に学んだ。健康を害していたにもかかわらず、優秀な生徒であり、特に数学に秀でていた。 |
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2009/09/08 19:21
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2009/09/06 19:10
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2009/09/05 18:37
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2009/09/02 20:30
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