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Logic and Metaphysics
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Frithjof Schuon and Perennial Philosophy
フリッチョフ・シュオンと永遠哲学
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Logic and Metaphysics 記事目録

2020/01/01 00:00
[フリッショフ・シュオン]

フリッチョフ・シュオンとは?(Wikipediaより)
フリッチョフ・シュオンの生涯(Wikipediaより)
フリッチョフ・シュオンの思想(Wikipediaより)
フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(1)(2)
フリッチョフ・シュオン「啓示の多様性」(1)(2)
フリッチョフ・シュオン「十字架」(1)(2)
フリッチョフ・シュオン「祈りの次元」(1)(2)
フリッチョフ・シュオン「真理と現前」(1)(2)
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フリッチョフ・シュオン

2019/12/31 19:30
画像



フリッチョフ・シュオン
(1907/6/18−1998/5/5)

 形而上学者、比較宗教学者。スイス、バーゼル生まれ。父の死後、フランスに移り住む。1932年アルジェリアに訪問、アフマド・アル・アラウィーのスーフィー(イスラーム神秘主義)教団に入門。のち、自ら「タリカー・マリアーム」(アラビア語で「マリアの道」)という名の教団を立ち上げ、多くの弟子を育てる。第二次世界大戦中スイスに戻り国籍を取得、40年間住むことになる。その間常に、東洋西洋問わず、著名な宗教学者や思想家の訪問を受けていた。1949年ドイツ系スイス人の女性と結婚。第二次大戦後、夫婦でアメリカに旅行、ネイティヴ・アメリカン(インディアン)と交流を深め、部族の一員として受け入れられた(ムスリム(イスラム教徒)としては歴史上初)。ネイティヴ・アメリカンをモチーフにして多数の絵画を描いた。のち、アメリカに移住し、その地で1998年歿す。
 フリッチョフ・シュオンは、哲学、霊性、宗教の権威、永遠宗教(Religio Perennis)の解説者、永遠学派(Perennialist School)の主要な代表者の一人と理解されている。彼は公式にはアカデミックな世界に加入したことがないが、彼の著述は学門的、哲学的学術誌において、比較宗教学や霊性の学者たちに注目されてきた。現代のアカデミックな世界の相対主義への批判は、彼の教説の主要な側面のひとつである。その教説においてシュオンは、絶対原理、神への信仰を表明している。神とは、宇宙を支配し、死後私たちの魂が帰還する者である。シュオンにとって、偉大な啓示は、この絶対原理である神と人間とを結ぶものである。彼の大部分の著作はフランス語で書かれている。晩年、彼は詩集を母語であるドイツ語で編んだ。彼のフランス語の論文は約二十冊ほどにまとめられ、後に英語や他の諸言語に訳されている。

著作:『諸宗教の超越的一致』(1948)、『心眼』(1950)、『精神的諸観点と人間的事実』(1953)、『真智』(1957)、『カーストと人種』(1957)『智慧の階梯』(1958)、『イスラームの理解』(1961)、『古代世界へのまなざし』(1968)、『論理と超越』(1970)、『宗教の形式と実質』(1975)、『原理及び道としての秘教』(1978)、『スーフィズム』(1980)、『キリスト教とイスラーム、その内的一致』(1981)、『神から人へ』(1981)、『形而上学概観』(1985)、『中心を持つ』(1988)、『自己の言語』(1990)、『仮面の遊戯』(1992)、『人間の変容』(1995)

「人は祈る。祈りが人となる」(フリッチョフ・シュオン)
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フリッチョフ・シュオン「真理と現前」(2)

2011/04/10 19:56
 もしキリストがキリスト教徒にとって現前の真理、つまり、真の現前、唯一の神の真の現前であるならば、反対にムスリムにとって預言者は真理の現前であり、彼のみが純粋で全的な真理、真理そのものを現すことになる。これが、他の言説に目を向けないムスリムにとって、ムハンマドが「諸々の使徒」の中で最も偉大なものである理由である。「この真理、この預言者」とムスリムは主張しているようなものである。その一方、キリスト教徒にとって、反対に真理はまったく神―人の無比性に依存している。
 ムスリムにとって、絶対者の真理のみが救う。それゆえ、その全ての面で、キリスト教における現前の要素を減じたり低下させたりする傾向がある。他方、キリスト教徒にとって、現前のみ――ないしこの現前――が救いの効果を伝える。そこには、「プラトニズム」の形態、言いかえれば、自由化する真理に基づく観点のどれをも過小評価したり拒否したりする傾向がある。
 イスラームにおけるムハンマドの卓越性――これまで示唆してきた、少なくともその最も根本的な関連における論理的動機――は結果的ないし付随的に、偶然的にであり、イスラームによる彼らへの崇敬にもかかわらず、ムハンマド以前の使徒達の過小評価という奇妙な傾向をもたらしている。この特徴をここで言わなければならなく感じるのは、スーフィーの作品や(註4)、クルアーンの註釈にそれが現れ、その痕跡はいくつかのハディースにさえ見出されるからである。(註5)西洋アラビストの側の速過ぎる憤慨に機先を制するには、宗教とは仏教の用語で言うウパーヤ(註6)であること、この理由により、客観的には不適切でも、にもかかわらず、その効果によって宗教が役立ち、正当化される宗教的格言にとっては論理的に適切であること、これらを思い起こすべきである。
 他の観点から、キリストや聖処女への残念な意見に関して、一方で、他の宗教的観点から自身を守るというすべての公共の必要性――そこでは、人間の集団性は彼らがそれであるところのものであるので、目的が手段を正当化する――を、他方で、キリスト教の神人同型説に関するイスラームの側での拒絶を考慮に入れなければならない。卓越的被造物に与えられた「神の母」という称号のような表現は形而上学的な護教的省略なのであるという主張を成すことができる。しかし、公共的領域上で、その大胆さや軽さのために犠牲にされる微妙な註釈が不在である中で、この表現は絶対者のすべての形而上学を停止し、私たちの、神の絶対性の直接的で完全で、効果的な気づきの弱点を示す。というのも、現象も神である――これは矛盾である――この場合、神は母を持たない、そうでない場合は、神は母を持つが、この場合はそれは神ではありえない、少なくとも、それが母を持ち、仮説の当初の矛盾を捨て去る限りで。この仕方で絶対者を低める――ムスリムが言うように――としても、相対的なものを低めるならば憤慨する必要はない。絶対者とその栄光のためにのみそうしているのだから。(註8)
 ムスリムは、キリストの処女降誕から不適切な神学的結論を引き出していると非難されない。しかしながらムスリムは、唯一の救い主の歴史的降誕以前は「地獄」にいるものとして、エノク、モーゼ、エリヤの昇天はキリスト教徒にとって意味がないと言い返すかも知れない。もし人が、ムスリムは真理という要素――この場合、現前という要素にある危険と思われる面に有利なものとして超越を強調する――の名において極端な神学的証明書を手にしているという意見に属するならば、同じ理由で、キリスト教徒は現前の要素を好み、超越の形而上学的結果を犠牲にする多くの自由があり、このゆえに、真理の要素を軽視する。好むと好まざると、一般的な仕方で、ウパーヤは、一見法外に見えるが、最終的には人間の本性の事実によって説明され、正当化できる権利を持つ。
 一言で言えば、キリスト教徒とムスリムの間(註9)の誤解は基本的にここにある。キリスト教徒にとって秘蹟が真理として役立つ。その一方、ムスリムにとって真理が秘蹟として役立つ。

註4・イブン・アラビーの『フスス・アル―ヒカム』はこの独自の例の幾つかを提供している。
註5・おそらく正統的ではないが、どういう場合にしろ広まっており、内容に関しては否定されていない。
註6・ウパーヤとは天が魂を勝ち取ろうとする「効果的手段」である。魂は幻想であるから、「手段」も必然的に幻想的なものとなる。そこから教理、手段、宗教、あるいはむしろそれらの様々な面の非整合性がある。
註7・この矛盾はもちろん、文字通りの意味のみを含意し、その底にある神秘は含まない。しかしながら、公教にとって、文字通りの意味が重要である。
註8・イスラームの伝統によれば、太陽と月は、人によって崇拝されたために、時の終わりにおいて地獄へ投げ捨てられる。そのような意見は、ヒンドゥー教の観点とすべての他のの神話的ないし、彼らの側で、私たちが様々な機会に現象の形而上学的透過性と呼ぶものに基礎付けられた「異教の」観点の反対の所にある。しかしながら、この原理は主観的には多くの者に歪んだ応用を惹起するということは知られねばならない。――私はここで逸脱であり単なる乱用ではない偶像崇拝を念頭に置いているのではなく――例えば、神人同型的有神論が、聖職者的完成を可能にするすべての自力的衒学と結びつくマハラージたちの擬似儀式的神化の領域における。イスラームの偶像破壊的反応は、すべての相貌において偶像崇拝に向かう。同じコインの片面として、内在が超越と競合するところではどこでも、内在に対する超越の名が持ち上がる。エソテリスムのみが、この限定する傾向を原理的に避けうる。
註9・ないし、必然的に留保あるいはニュアンスつきではあるが、キリスト教徒とプラトニスト達の間。

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「真理と現前」(1)

2011/03/27 17:22
 絶対者の救いの顕現は真理でも現前でもある。しかし、それは排他的な仕方であれかこれかなのではない。真理としてそれは現前を含み、現前としてそれは真理を含むからだ。そういうものがすべての神現というものの二重の本質である。それゆえキリストは本質的に神の現前の顕現であるが、しかし彼はそのことによって真理でもある。「私は道であり、真理であり、命である」。絶対者がアプリオリに現前ないし真理であるならば、絶対者の顕現を通して以外に、誰も絶対者の救いの近さに入ることはできない。
 キリスト教においては、現前の要素が真理の要素に先行する。第一の要素が、いわば、真理がキリストという現象と同一視されるという意味で、第二を吸収する。キリスト教の真理とはキリストが神であるということである。ここから三位一体という教理が生じるが、これは、キリスト教の出発点が真理の要素、すなわち、絶対者の教理であるならば意味を成さない。後者は、神は自身を一なる現実として最高の仕方、あるいはセム族の公教によって許される尺度において表すイスラームの場合である。(註1)
 したがってイスラームは救うのは絶対的真理であるという公理に基礎付けられている。もちろん同時にその結果としてその意志にもあてはまる。この見方の公教的限界は、真理のみが救うのであり、現前はそうではないという公理である。反対にキリスト教は、神の現前が救うという公理に基礎付けられる。ここでの秘教的限界は、一方でこの現前のみが救うのであって他のものではなく、他方で、現前のみが救うのであり、真理という要素そのものが救うのではないという公理である。(註2)
 イスラームとともに救うのは真理である――それは絶対者の真理なのだから――と言うことは、真理の結果すべてが引き出されねばならないということ、それは全体として、すなわち、意志と感情と、同様に知性によって受け入れられねばならないということを意味する。キリスト教とともに救うのは現前である――それは神の愛の現前だから――と言うことは、人が、秘蹟的に供犠的に現前の型に入っていくこと――己を神の愛に捧げることを意味する。必然的に、まず愛し、次に意志し、最後に知る――神の愛に関連して知る。対してイスラームでは、人は最初に知らねばならない、その次に意志し、最後に愛さねばならない――そういう図式がこういう問題を表すのに許されるならばだが、神の知に関連して愛する。

 アプリオリに、あるいは公教的には、キリスト教の真理の要素は、既に述べたように、キリストが神であり、キリストのみが神であるという公理である。しかし、アポステオリに、あるいは秘教的には、キリスト教の真理は、一方で絶対者のすべての顕現は絶対者と同一であり、他方で、この顕現が同時に超越的且つ内在的であるということを意味する。キリストが私たちの上にあることで超越的であり、キリストが私たちの中にあるということで内在的である。知であり愛であるものは真心である。真心に入ることはキリストに入ることであり、逆も同様である。智が小宇宙のキリストであると同様にキリストは小宇宙の真心である。「神が人になったのは人が神になるためであった」。真我が真心となったのは真心が真我となるためであった。これが「神の国はあなた方の中にある」という理由である。
 この真智の中で、イスラームとキリスト教は出会う。なぜなら、かりに強調点を智の活動的霊感的機能に置くならば、真心は内在的なクルアーンないし内在的預言者だからである。これをまとめると、イスラームにおいて、現前の要素は、一方ではクルアーンに、他方では預言者によって表現されると言える。この現前の要素に全ての価値を付与すること――イスラームにおける出発点である真理の要素に関連して――は、秘蹟的にユーカリスト的にクルアーンと一体になることであり(註3)、フィトラ、「根源的規範」以外の何物でもないムハンマドという型に入ることで預言者と一体になることである。人は、預言者によって規定され、預言者によって人格化された、守るべきルールの体系、スンナに自らを閉じ込めることでこの型に入る。さてこれらのルールは「水平的」であるとともに「垂直的」でもある。それらは物質的で社会的であると同時に霊的生活にも関係する。
 クルアーンそれ自体も、真理であり現前である。その教理によって、真理は絶対者以外の何物も存在しないこと、神現的秘蹟的性質によって、現前が心髄の祈り、ディクルの源であるということを教える。


註1・この限定が意味するのは、まさに祈祷的主意的観点によって、神学的観点がある主の二元論を避けることができないということである。
註2・イスラームの救いの真理は「真理そのもの」――かくかくの真理ではない――というのもそれは絶対者にかかわり現象にはかかわらないからである。
註3・クルアーンの朗誦に生涯を捧げるムスリムがいる。また、それを理解してさえいなくとも、クルアーンを唱える非アラブ系のムスリムがいる。

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「祈りの次元」(2)

2010/08/17 20:04
 祈りの他の次元は、一方で人間は死すべき存在であり、他方で不死の魂を有するという事実から生じる。人は死を通らねばならない。そして結局の所、神の御手にある永遠に関わらなければならない。
 人間の根元的な能力とは、形而上学的知識を得ることのできる智性である。結果として、この能力が、瞑想に伴う祈りの次元を規定する。その主題は、まずもって至高原理の絶対的現実であり、そして、それを顕す世界の非現実――あるいは、相対的現実――である。
 しかしながら、人間はその本性を超える意図を持つ必要はない。彼が形而上学者でないのなら、一つであるよう義務付けられていると信じる必要はない。神は賢者を愛するのと同様に子供たちを愛する。神は、子供にとどまるすべを心得ている子供の真摯さを愛する。
 これは、祈りにおいて、すべての人間に課せられている次元があることを意味する。なぜなら、この局面において、問題なのは、人間の大きさ小ささではなく、神の前で真摯にあることだからである。一方で、人間は常に神の前では小さい存在である。他方で、彼が神と対話する時、常に人間には偉大さがある。結局の所、すべての質と徳は至高の善に属する。

 私たちは、原理の絶対的現実、それゆえ、相応して、それを顕す世界の非現実――あるいはより小さい現実――を内容として持つ瞑想的祈りの次元があると言った。
 しかし、「ブラフマは現実、世界は幻想」と知るだけでは十分ではない。「魂はブラフマと異なるものではない」ということも知る必要がある。この第二の真理が私たちに次のことを想起させる。私たちの本性が許す限りにおいて、私たちは、知的なだけでなく、存在的なものとして至高の原理に向かうことができるということを。これは、私たちは単に客観的知識を得ることのできる智性だけでなく、原理上、主観的一致の可能な「私」という意識を所有するという事実から生じる。一方で、エゴは内在的聖性から切り離されている。なぜならそれは顕現であって原理ではないからだ。他方で、原理が自らを顕す限りにおいて、エゴは原理と異なるものではない。ちょうど、鏡の中の太陽の反射は太陽ではないが、にもかかわらず、その反射が太陽光線であり、他の何物でもない限りにおいて、「それと異ならない」ようなものである。
 このことに気づけば、人間は、超越的であると同時に内在的である神の前に立つことを止めることはできない。私たちの瞑想的意識の範囲、霊的運命の神秘を決定するのは、神であって、私たちではない。しかし、私たちは、神が私たちにおいてこの聖なる自己意識をどの程度実現しようとしているかを知ることはできない。それを私たちが知るか知らないかは重要性を持たない。私たちは私たちがそれであるところのものであり、全ては、摂理の下にある。

(おわり)


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フリッチョフ・シュオン「祈りの次元」(1)

2010/08/16 18:05
 人は、自らの全てをもって神に見えなければならない。なぜなら、神はすべての存在であるからだ。これが、「すべての力でもって」神を愛せ、という聖書の命令の意味である。
 さて、事実としての人間を性格づける次元の一つは、彼が外界に向かって生きているということ、そして加えて、彼が快楽に向かっているということである。これが彼の外面性であり、彼の色欲である。彼は、神の前でそれらを否認しなければならない。神は私たちのなかに現れ、第二に、人は彼自身の中、感覚現象とは独立に快楽を発見することができるのでなかればならない。
 神に人を近づける全てのものは、まさにこの理由によって、神の至福を共有している。祈りによって、魂のイメージや雑音を超えることは、聖なる空虚と無限を通じた自由である。それは静穏の座だ。
 外的な現象は、その高貴と象徴による天界の元型への参与により、内的な徳を持ちうる。すべてのものは、その時節に従って善でありうる。にもかかわらず、離脱は実現されねばならない。さもなければ、人は、外面性を正当なものとする権利を持たないし、魂にとって死をもたらす誘惑的な外部性や情欲に陥ることになろう。創造主が、その超越によって、創造から独立しているように、人間は、神の観点から世を離れてなければならない。これが人の能力である自由意志である。人間のみが、自身の本能や欲望に抵抗することができる。Vacare Deo.

 人間の他の能力は、理性ある思考と会話である。結果として、この次元は、神との邂逅を通じて実現されなければならない。それが祈りである。人は悪を避けることだけで救われるのではなく、彼はまた、とりわけ、善を成し遂げることによって救われる。最も良い働きとは、神をその対象とし、私たちの魂をその作用者とすることである。これが「神の想起」である。
 祈りの本質は信仰であり、それゆえ、確信である。人はそれをまさに話すことで、表す。あるいは、至高の善への訴えであり、申し入れである。祈り、ないし祈願は、神、そして霊的使命の確信と等しい。
 行動は、その意図に従って正当である。祈りにおいて、いかなる野心に犯された意図があってはならないのは明らかである。それは、天の怒りをまねくすべてのこの世の虚しさを逃れてなければならない。
 真心を込めた祈りは、それを実現する者にだけ有益なのではない。それは彼の周囲に広がり、この観点からいえば、慈愛の行為なのである。

 人はみな幸福を求めている。これは、他の人間の本性の次元である。神の外には完全な幸福はない。この世の幸福はすべて、天の祝福を必要とする。祈りは、純粋な至福である神の現前へと私たちを招く。もし私たちがこのことに気づいているなら、そこに平和を覚えるだろう。聖なるものの感覚を持ち、それゆえ、この神秘に魂を開くものは幸いなるかな。

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「十字架」(2)

2010/08/08 19:19
 「あなたがたの内罪を持たない者のみが、まず彼に石を投げよ」。私たちはすべて同じ罪深き実体であり、このはれ物である悪に感染しやすい物質で作られている。その結果、私たちは、疑いなく間接的ではあるが現実的な仕方で、悪に参与している。あたかもすべての人が自らすべての罪を部分的に背負っているかのようである。この場合、罪は宇宙的偶然として現れる。正確に大きな尺度におけるエゴのように。厳密に言えば、エゴのない人は罪がない。その人は、そのことによって、あたかも風のようである。誰も「どこから来てどこから来るのか言え」ない。もし神のみが罰を与える権利を持つなら、それは神がエゴを超えているからである。憎しみとは、神の座に自らを置く傲慢、人間共通の悲惨を分有していることの忘却、私たちのものである「我」に何か絶対的なものを宛てること、を意味する。彼は、多くの反動やもつれによって成る人間の実質から、「我」を区別しているのだ。人間が、「我」の上に立つ、もしくは立ちうるかぎりにおいて、神が時折罰する権利を与えることがあるというのは真実である。しかし、神の道具となるということは、人を憎しむということではない。憎しみにおいて、人は「原罪」を忘れ、そのことによって、ある意味で、人の罪を自ら負う。それが、愛すべき私たちの敵を憎む時でさえ、私たちは自らを神とする理由である。他人を憎むということは、神のみが完全であり、神のみが裁き手であるのを忘却することである。健全な論理として、人は「神の内で」そして「神のために」のみ憎むことができる。私たちは「不死の魂」ではなく、エゴを憎まなければならない。他のなにものでもない神を憎む人をその限りで憎まなければならない。まとめると、私たちは神への憎しみを憎むべきであり、その魂を憎むべきではない。

  「十字架を負う」とは、実存的十字架に自身を結びつけることである。存在の領域には、「罪」の極と「十字架」の極がある。快楽に投げ出された盲目と、停止する良心、「広き道」と「狭き道」。「十字架を負う」とは、本質的に「潮流を泳ぐ」ことではない。それは「諸霊を見分ける」ことであり、見かけ上無である真理の中で堕落せぬことである。「十字架を負う」とは、それゆえ、この無、この神への戸口に耐えることである。世界はうぬぼれであり、エゴイズムであり、熱情であり、間違った知であるので、「十字架を負う」とは、謙遜、慈愛、「死ぬ」こと、「小さな子供のように」なることである。この無は、私たちがうぬぼれている限りにおいて、苦しみである。無は私たちを苦しめる。煉獄の火は無に他ならない。それは燃え上がる私たちの実体である。神が私たちを憎むことを望むゆえにではなく、それが存在のレベルに応じてそうであるところのものであるから――それが「この世のもの」だからである。

 十字架は聖なる裂け目であり、それを通って無限から慈愛が流れ込む。二つの次元が交差する十字架の中心は、見捨てることの神秘である。それは、魂が自らを失う時、「もはやない」「いまだない」、「霊的瞬間」である。キリストの受難全体のように、この叫びは、人がそこにおいて放棄によって共有せねばならない悲しみの神秘であるだけでなく、反対に、神のみがもたらしうる「はじまり」である。彼が神であるから、彼はそれをもたらす。これが、「私のくびきは負いやすい、私のくびきは軽い」の意味である。人間にゆだねられた勝利は、すべにイエスによって勝ち取られた。人間にとって、この勝利に自らを開くこと、それゆえ、自ら自身になることのみ残されている。

 論理学者の場合の「抽象」は、肉と成った言葉の場合は、あたかも具体である。ロンギヌスの槍は単にキリストの脇腹を刺しただけだ。槍を流れ落ちる聖なる血の一滴は人の手に触れる。その瞬間、彼にとって、世界はガラスの家のように崩壊する。存在の闇は引き裂かれる。彼の魂は、滴る傷のようになる。彼はあたかも酔っているかのようであるが、その酔いは冷めており純粋なものだ。彼の生の全体は、それゆえ、十字架の下での一瞬を千回繰り返す反響のようである。彼は単に生まれ変わったのだ。真理を彼が「理解」したからではなく、真理が彼を実存的につかまえ、「具体的」な仕方で、彼をこの世から引き裂いたからである。肉となった言葉は、ある仕方で物体となった真理である。しかし同時に、変容し、新しく創り出された物体、燃える、変容する、放出する光としての物体である。

(おわり)


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フリッチョフ・シュオン「十字架」(1)

2010/07/24 20:09
 もし受肉が神の「下降」を意味するとすれば、キリストは創造の全体と等価であり、ある仕方でそれを包含する。彼は第二の創造であり、第一のそれを浄化し、贖う。彼は十字架によって、存在の悪を引き受ける。この悪を引き受けることができるために、必然的に神は存在となる。創造は、必然的に神からの分離であるがゆえに、十字架はどこにでもある。存在は自らを肯定し、喜びを通して開花する。しかし、喜びは、神をその目的とするのでない限り、罪となる。すべての喜びは、その存在の本質によって神へと向けられている事実において、形而上学的な口実を含むとはいえ。すべての罪は十字架の下で打ち砕かれる。しかし、人は盲目の欲望のみによって成るわけではない。彼は、神を知るという智を享受している。人はすべてにおいて聖なる目的に気づき、同時に「十字架を負い」「もう一つの頬を差し出す」のでなくてはならない。つまり、存在の牢獄の内的論理さえ超えなければならない。その論理は、この世の目には「愚かさ」であるが、この牢獄の世界を超えなければならない。それは「垂直的」すなわち「天上的」でなくてはならない。「水平的」すなわち「地上的」ではなく。
 存在者もしくは「顕現」は二つの側面を持つ。木と十字架。蛇が巻きつく喜びの木、肉と成った言葉の架かる十字架。不敬虔な者にとって、存在は「肉に従った」哲学によって人が正当化した情熱の世界である。選ばれた者にとって、それは恵み、信仰、真智に貫かれた試練の世界である。
 イエスは単に新たなアダムなのではなく、新たな創造でもある。古き者は全体性と周縁である。新しき者は、一性と中心である。

 私たちは十字架を免れえない、存在を免れえないように。存在する全てのものの根底に、十字架がある。自我とは神から離れる下向きの道である。十字架はこの道の中断だ。もし存在が「神の何か」なら、それはまた「神でない何か」でもある。これこそ自我が体現するものだ。十字架は後者を前者に引き戻し、そうすることで私たちに存在の滅却を可能にする。
 存在の問題を複雑にしているものは、神がすべての場において顕現するからである。というのも、神の外には何物も存在できないから。すべての客体は、神聖なるもののこの離れた認識から分離されたことは決してなかった。これこそ、十字架の影において喜びが把握され、避けえないものでさえあることの理由である。存在することは喜びである、たとえ十字架の下でも。ここが、人間が自らを保つべきところである、なぜなら、それこそ深いものの道理であるから。苦難と死は宇宙的肉体に再現した十字架にほかならない。存在は、十字架に印づけられた薔薇である。

 社会道徳はある人間の正しさと、他の人間の間違いを区別する。しかし、キリストの神秘的道徳は、厳密に言って、誰にも正しさを認めない。むしろ彼らを、誰も正しくない地平へと置く。というのは、すべての人間が罪人であり、「神以外に善き者はいない」から(原注1)。モーセの律法には社会に害をを成した人、たとえば姦通者への石打刑がある。キリストにとって、害を成しうるのは、一切の復讐とは無縁の神に対してのみである。全ての人は永遠の者の前では有罪である。すべての罪は、アダムとイヴの罪であり、すべての人間はアダムもしくはイヴである(原注2)。最初の正義の行為は、それゆえ、隣人を許すこととなる。「他人」の罪は、私たち自身の足元にある。隠れた罪が顕わになることが、私たちに共通する実態を構成する。
 しかし、キリスト、彼の王国は「この世のものではない」が、それが避けえない限りにおいて、人間の正義の扉を開く余地を残している。「それゆえ、カエサルのものはカエサルに」。すべての地平においてこの正義を否定することは、結局不正義に終わるだろう。そうであっても、悪をその全体的な根拠、その必然的にあるしかない罪の次元に引き戻すことで結局の所、私たち自身の、すべての自我の本性にそれを見て取ることによって、憎しみを克服することは必然的なことである。自我とは、光線からの断片を成す光学的幻影であり、それが「私たち自身」もしくは「他人」の問題であるかどうかによって逆にもなる。真理を通して、全てを理解し、「全てを許す」寛容さを見出し、すべてを公平な場へと還元することは、必然的である。悪を超え、それゆえその反対物のない平和によって悪を滅することは必然的である。真の平和は、その反対物を持たない。

(原注1)「というのも私自身では何も知ることはない。これによって私が正当化されるわけではない。私を裁く者は主である」(第1コリント書4:4)
(原注2)聖大グレゴリウスの書簡――ベーデ候による「英国国教会史」に引用されている――はこう書いている、「すべての罪は三つの原因からなる。すなわち、誘い、喜び、そして同意。誘いは悪魔から、喜びは肉体から、同意は意志から来る。蛇が最初の罪をさそった。そして肉であるイヴが、肉体的喜びをそこに見出し、心であるアダムがそれに同意する。しかし、最も繊細な智のみ、誘いと喜び、喜びと同意を区別することが出来る」

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「啓示の多様性」(2)

2010/07/24 10:41
この二つ、一性と多様性は共に、それ自身を顕すことができなければならない。しかし、二つの顕現は必然的に相対的なものであり、一方が他方を制限する。ここから結果として、一方で多様性は一性を廃止することはできず、一性もしくは唯一性はそれ自身の存在の領野において多様性と矛盾する。いいかえれば、唯一性のすべての顕現において、それを補完する多様性が維持されねばならず、事実、独特の事実は部分においてのみ生じるのであり、宇宙全体においてではない。一定の事実は、その事実が存在することにおいてではなく、一定の環境にとって神を表現する限りにおいて独自のものである。しかしこの存在は、象徴を廃止するのではなく、同じ平面ではあるが、その独自の事実が生じる枠組の外でそれを繰り返す。聖なる言葉を伝える存在は、その神意の領域の内側において一定の啓示の唯一性を廃止しないが、この領域の外側で、神の言葉の顕現を繰り返す。それゆえ、多様性は、唯一性の形而上学的に必然的な顕現を廃止することはないが、特定の枠組の外では、それと矛盾し、その結果、創造されざる、非顕現の言葉のみが、絶対的唯一性を持つことを示すのである。
 もし、啓示が生じた瞬間、それは世界にとって独特であるのであり、単に世界の部分にとってではないという反論があるならば、こう答える。多様性は必ずしも同時に生じず、時間的に連続して拡張していくこともある、と。これは明らかに諸啓示の問題の場合である。その上、事実の唯一性と原理の唯一性を混同してはならない。私たちは一定の時期における、事実の唯一性の可能性を否定しない。しかし、絶対的な意味での事実の独自性は否定する。空間的に独自のものは時間的なそうではなく、逆もまた真である。しかし、これらの存在の諸条件それぞれに内でさえ、事実はその種の独自性だとは言えない――というのも、それは類もしくは質であり、問題となっている特殊性ではない――私たちは時間も空間も測り得ない、私たちを逃れる諸様態はなおさら。
 この全体の教義は、明白に次の例によって示される。太陽は私たちの太陽系において唯一である。しかし、空間的にそうなのではない。私たちは、私たちの太陽と同様に空間的に配された別の太陽を見ることができる。しかし、私たちはそれらを、私たちの太陽とは見なさない。私たちの太陽の唯一性は、星々の多様性によって裏切られるが、それによって、摂理の下にある私たちのものである太陽系内での有効性が失われるわけではない。それゆえ、唯一性は部分において顕されるのであり、部分がにもかかわらず私たちに示す全体においてではない。ゆえに、神の意志によって、それは全体性「である」。もちろん、私たちにとってのみ、その範囲はこれまた神の意志によるが、私たちの心が形態を超えていかない限りにおいてのみではあるが。しかし、この場合でさえ、その霊的効果に関する限り、部分は全体「である」。

 私たちは地上において、多様な人種の存在を見る。この多様性は「妥当」なものである。「真の」人種に対立する「偽の」人種などというものはないからだ。同様に私たちは多様な言語を見る。それらの正当性疑義をはさむ者などいない。同じことは科学と芸術においても真である。さて、この多様性が宗教の領域においては生じないとすれば、すなわち、人間の器の違いに応じて、聖性の項目――形式のそれであって、本質のそれではないが――の多様性が生じないとしたら、驚くべきことである。ちょうどそれぞれの人種の枠組の中で人間が単に「人間」であって、「白人」でも「黄色人」でもないように、それぞれの言語が、それ自身の空間では、ただの「言語」であり、様々な言語の中の一言語ではないように、それぞれの宗教も、いかなる相対化もなしに、達成されるべき目的の観点からは無意味だが、それ自身の平面においては必然的に「宗教」にほかならない。宗教を語ることは「唯一の宗教」を語ることなのである。明示的に一つの宗教を実践することは、暗示的にはそれらすべてを実践することなのだ。
 克服できない障害と衝突する考えや試みは事の本性に反している。人類の民族的多様性と地球の地理的広がりだけでも、すべての人にとってのただ一つの宗教という公理は、まったくありそうにない。むしろ反対に、――少なく見積もっても――宗教の多様性の必要性こそありえそうである。別の言い方をすれば、唯一の宗教という考えは、もし絶対性と普遍性を主張するならば、矛盾を免れない。一方で、その実現は心理的に物理的に不可能であり、他方で、いうまでもなく、そうした主張と、すべての宗教神話の必然的に相対的な性格との二律背反がある。純粋形而上学と純粋な祈りのみが絶対的であり、それゆえ普遍的である。「神話」に関しては、――真理の内在的内容とその効果は別にして――形而上学的、本質的な真理を、一定の人間集団の基礎とすることができるためには不可欠である。
 宗教は、「超自然的に自然な」事柄であり、その真理は――外的な証拠の観点からは――人間の普遍性によって証明される。その結果、宗教現象の多様性と偏在性は、宗教それ自体にとって有利な、力強い主張を構成する。植物が、間違うことなく光に向かうように、人間は誤りなく、啓示、それゆえ伝統に従う。動物の自然本能には、何か不可謬的なものがある。人間の「超自然的本能」もまたそうである。しかし、人間は自然それ自体に逆らうことができる唯一の「動物」である。間違ってそれを侵害するにせよ、それを超え行くにせよ。

(おわり)




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フリッチョフ・シュオン「啓示の多様性」(1)

2010/05/05 18:42
 唯一の真理があるのだから、唯一の啓示、唯一の伝統だけが可能であると結論せねばならないだろうか? これにはこう答える。まず、真理と啓示はまったく同等ではない語である。なぜなら真理は形を超えており、他方、啓示もしくは伝統は形から成り、形の世界に属するからである。定義上確かにそうなのだ。ところで形について語ることは、多様性、すなわち多数性について語ることである。形の存在と本性の根拠は、表現であり限定であり差異である。形の中に入るものはまた、数の世界、すなわち多様性の中にも入る。形式原理は――聖なる可能性の無限性に霊感を与えられて――この反復へ多様性を与える。たしかに、私たちの人間世界には唯一の啓示ないし伝統のみがあり、私たち人間によって知られない、あるいは知ることすらできない他の諸世界において多様性が実現していると考えることはできる。しかしこれは、真理の形の違いを決めるのは受け入れる人の器の違いであるという事実を理解しそこねている。何千年もの間、人類は、多かれ少なかれそれ自体で完結している多くの完全な人間性として形作られた、幾つかの根本的に多様な支流へと枝分かれしてきた。精神的な器の存在がこれほど違い、これほど独自であるということが、一つの真理の様々な屈折を要求している。これはつねに民族の問題というわけではなく、非常に多様ではあるが、にもかかわらず全体として彼らを十分に同質の精神的器とする心理的諸条件に従属している人間集団の問題であることを明記しておこう。この事実は、個人をその集団の枠組から飛び出すことを妨げないけれども。というのも、人間集団は決してこのことについて絶対的なものではないからである。そうであるならば、様々な諸啓示は決して相互に矛盾しない、なぜなら、それらは同じ器に適用されておらず、神は決して異なった性格を持つ二つ以上の器に同じメッセージを送らないからである。これはたとえれば、形式的に不一致である諸次元に対応している。矛盾は、同じレベルに置いたものの間でのみ生じる。諸伝統の見かけの諸対立は、言語や象徴の違いのようなものである。矛盾は人間の器の観点のことであり、神のそれではない。世界における多様性は、聖なる原理からの隔絶の結果である。創造神は、世界が存在すると同時に存在しないことを意志することはできない、ということなのだ。
 もし啓示が相互に相反するならば、これは必然的なことである。なぜなら神は、彼が語る際、絶対的な仕方でみずからを表現するからである。しかしこの絶対性は、形式よりも普遍的内容に関わる。相対的象徴的意味においてのみ内容は形式に適用される。形式は内容の象徴であり、まさにこの内容が宛てられている所の全体としての人間性の象徴でもある。学者がするように、神が多様な啓示を外部から比較することなどできない。神は、それぞれの啓示の唯一の中心として自らを保つ。啓示が絶対的な言葉で語るのは、神が絶対的だからであって、その形式が絶対的だからではない。言い換えれば、啓示の絶対性はそれ自体の絶対性であって、その形態の絶対性ではない。
 聖なる諸啓典の言語は聖なるものであるが、同時に必ず人間の言語である。人間のために作られたのであり、間接的な仕方でのみ聖なるものでありうる。神と私たちの表現手段との通約不能性は諸聖典に明らかであり、そこでは私たちの言語や論理はともに天の意図に適していない。不死ではない者の言語は、アプリオリに、永遠の相から物事を見ていない。創造されざるコトバは、創造された言葉を粉砕し、それを真理へと方向づける。この仕方で、それは人間の論理と関連して、その超越性を表す。言葉の聖なる意味に達したいならば、人はこの限界を克服せねばならない。そうすれば人は、純粋智の果実である形而上学的智において、また、ある仕方においては、本質的なものに接する際、愛において、これらを克服する。聖なる真理をこの世の真理の諸条件に還元しようとするのは、有限と無限の間にはいかなる共通の尺度もないということを忘れることである。
 啓示の絶対性はその一性を要求する。しかしそのような一性は、その種の一性である事実、つまり、それ自身において、全体的な類にまで達するものを構成する事実を実現するほどのレベルにおいては生み出されることはできない。どういうレベルで考えられようと、真実在のみが唯一である。神、普遍的実体、この実体に内在する聖霊。しかし、啓示のように、「相対的に一的な」事実がある。すべてが相対的なのであり、諸原理さえ例外を許す――少なくとも見かけ上――原理がつかの間のものの中に侵入する限りでは。それゆえ、一性は事実の領域においても生じ得なければならない。もし、一的事実がいかなる仕方でも存在しないのならば、多様性が絶対的なものとなるだろう。それは純粋単純に矛盾である。


(つづく)



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フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(2)

2010/04/25 19:13
 ユダヤ教について特徴的であるのは、それが選民とのパートナーとしての神に強調点を置いているところだ。両者をつなぐものが律法である。律法に強調点があると言ってもよい。神とイスラエルの間に据えられているので。イスラエルが神の民であるとすれば、神はイスラエルの神である。その契約はシナイの律法によって封印された。神とその民の間のドラマは、宇宙のリズムとすべてのものの絶対への還元という二重の観点から、そのすべての両義性と最終的な栄光とともに、アートマとマーヤーのドラマを反映している。
 セム系宗教、またアーリア系宗教とすらまったく異なっているものは仏教である。なるほどそれ自体は、アーリア的有神論敵宗教の頂点において発生したものではあるが。この観点では、絶対―無限は客観的神性の形をとらない。客観的神性とは、同時に超越的にして内在的であり全能であるが、――少なくとも先験的には――実際、すべての想像的状態、存在を超え、まさに絶対的で無限の状態である内的状態の観点から唯一のものとして現れるものである。ニルヴァーナという観念は、明らかに非―神論的であるが、「無神論的」では決してない。というのも、それは絶対、無限、完全なる現実という観念を含意し、見かけの上で、また形と情の世界と比較する場合を除いて、無であることができない。他の観点からすれば、ニルヴァーナは、仏陀という形態において客観化している。それは、すでに引用している教父の公式に連れ戻す。次のように言い換えられよう。ニルヴァーナ(神性の状態)がサムサーラ(世界)となったのは、サムサーラがニルヴァーナになるためであった。今、サムサーラとなったニルヴァーナとは、事実、ロゴスあるいはアヴァターラとしての神である仏陀にほかならない。


 まさに「永遠哲学」という表現、それから、それを使用してきた人々が、ほとんどトミストであり、すなわちアリストテレス主義者であるという事実は、疑問を生じさせる。この文脈においては、ギリシャの智慧の価値に関してである。一般的にはそれは単なる人間の思考体系として提示されているからなおさらそうだ。まず、ギリシャの智慧という言葉によって意味するのは、古典的古代ではなく、本質的にピタゴラス派に根を持つプラトニズムとプロティノス派によるその継承である。この基礎の上において、アリストテレス主義をも受容できるが、それが――ムスリムの哲学者の精神においてのように――広義の意味でのプラトニズムと結びつけられ、従ってそれがあたかもプラトニズムの特定の二次的な次元であるかのようになっているという明確な条件の上で。(原註2)ギリシャの智慧は、一方で秘儀への参入、他方で道徳の実践を前提している。基本的に、それは知識と関連しない事柄を扱う時でさえ、グノーシス――ヒンドゥー教のジナーナ――に属する。従って、アリストテレス主義はジナーナではないが、にもかかわらず、それはこの秩序に特別に属する観点に由来する。アリストテレス主義は、それ自体世界、科学、経験に開くという間違いを犯した形而上学であるが、それらすべてにもかかわらず論理的に妥当なものである。プラトニズムは天国、元型、永遠の価値を瞑想する。
 一方で、ギリシャ精神は――アリストテレス主義を通して、だが、結局の所ソフィストと懐疑家を通して――世俗的合理的哲学への逸脱を引き起こしたが、それは――とりわけプラトニズムを通して――セム系起源の様々な神学ばかりでなく、それらに伴い、それらに重なる秘教の思索に対しても、大変有益な諸要素を提供している。忘れるべきではないが、スーフィーの中には、プラトンをある種の預言者ととるものもおり、マイスター・エックハルトは、キリストが生まれる前に道を見いだした「偉大な司祭」と呼んでいるのだ。


 ある意味、ギリシャ哲学の反対物に置かれるのは――疑いなく、私たちがそれに言及することに驚く人々もいるだろう――一般にはシャーマニズムと呼ばれるものに分類される、共通点のないばらばらの諸伝統である。一方で、この伝統の流れ、根元的伝統の時期遅れの証人は、古代の中国の宗教を生み、その後、二つの相補的な結晶、儒教と道教を生んだ。その上、この流れに古代のモンゴルの宗教、神道、同様にボン教が属する。他方で、この同じ流れはアメリカ・インディアンのシャーマニズムにおいて表される。それはアジアにおいてとったのとは違った諸形態においてではあるが。とはいえ、アメリカのシャーマニズムはアジアと共通の特徴を持つ。――それはすべての北方のシャーマニズムの特徴でもある――すなわちそれは、自然現象の崇拝、それゆえ、ある種の内在的「汎神論」に見いだされる。(原註3)別の言い方をすれば、それは無垢の自然を聖なる原理の顕現にほかならないものと見なす。(原註4)
 明らかに、シャーマニズムの関心は、魔術や呪文の濫用にあるのではない。その根は無垢の自然、聖なるものの原始的感覚に、それゆえ、その礼拝表現の「原始性」にある。そこには、そこからシャーマンの機能が外的に生じるところの「神がかりの預言」という特徴的な現象も含まれる。シャーマニズムの聖典は、書物の中にではなく、一方で自然の象徴、他方で魂の実質の中にある。そのうえ魂は、外部世界の反映であり延長である。一方でこの宗教の教義が自然環境の徴によって表現され、他方で魂が、道徳的儀礼的に、見かけから離脱し、それ自身の超自然的本性との接触に入ることが可能な限り神秘に接近するがゆえに、上のことが言えるのである。(原註5)これらすべては原理的にも実際的にも真実である。シャーマニズムの大部分が退化してしまったことも忘れてはならない。しかし、ここで問題となるのは偶然的な人間的事実ではなく、予想される原理とその根元的現実である。
 これらの根元的伝統の生き残りは人間の使命に気づいているすべての人間に宛てられたメッセージを含んでいる。これは、最も謙虚な花や星を含む無垢の自然によって構成される宇宙的聖域の聖なる性質の意識である。それはまた、心の深奥における、唯一にして全体的な啓示の内在性の自覚でもある。しかし、この真理は実際には、シャーマニズムが私たちに与えることのできなものである、次のこと無しには無である。すなわち、統合的教義であり救済する道としての「永遠宗教」は、人間の偉大であり本性的に正統な諸伝統に内在するものであるということ。人が捜し求めるべきであるのは、そうした諸伝統の中にであって、他の所ではない。


(原註2)ストア派に関しては、その道徳的イデアリズムへの関心、まさにその理由のために及ぼした影響にもかかわらず、この総合の中に入れるのはためらわれる。その汎神論的内在主義は、英雄的徳に特化された意図的に断片的な観点とも、純粋かつ単純な異端とも見られうる。
(原註3)ある意味知ることが難しいのは―私たちはこの単純な事実問題を探求する意図はない――たとえばアフリカ人のように、書いたものを所有していない人々の伝統がシャーマニズムに属するかどうか――もちろんモンゴルはそうではない――あるいは、それらは異なった原始の流れの支流なのかどうかである。これは、彼らの今日の状態とは独立のことである。
(原註4)「私たちの聖書は自然である」とアメリカ・インディアンは言う。「そして私たちは霊感によって読む」。このことに、この宗教が、即興の問題ではないこと、――統合的かつアプリオリに――たとえ、今日の世界においてインディアンであったとしても、すべての人間にとって接近できるものではないということを加えるのは不必要なことである。禅もシャーマニズムの神がかりの預言と同様の原理に基づくと言える。この原理は、私たちの時代において、最も基本的な伝統的規範を軽蔑した、最も危険なまがい物を生み出している。「あなた自身の中にすべてを探しなさい」と偽預言者は言う。彼らはどのようにしてかは説明せず、結局、諸条件を受け入れ、創造する一方、まったくの逆方向に向かう。次のロゴスの警告にもかかわらず。「集めるものは散らすものではない」、同様に「私なしにはあなたは何もできない」


(おわり)



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フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(1)

2010/04/24 20:27
 「永遠哲学」という語は、ルネッサンス以後に出現し、ネオ・スコラティシズムにおいてよく使われているが、根源的普遍的真理、それゆえ形而上学的原理の全体を意味する。それらの公理は何か特定のシステムに属していない。すべての宗教の本質を表す際、この語を「永遠宗教」と同じ意味で使うこともできる。これは全ての礼拝形態、全ての祈りの形式、そしてすべての道徳体系の本質を意味する。ちょうど、「永遠の智慧」が真智の全ての教義、全ての表現の本質であるのと同じことである。私たちは「哲学」より「智慧」という語を好む。後者はより間接的であり、加えてそれは完全に世俗的で、しばしば常軌を逸した思想体系と連携する考えを喚起するからである。
 永遠の「智慧」にとっての鍵となるのは、純粋智、別の言い方でいえば、形而上学的識別である。識別とは区別すること。現実と幻想、絶対と相対、必然と可能、アートマとマーヤーの区別。補完的作用的な仕方で識別に伴うものが、一致するものとしての精神集中である。これは――この世的人間的なマーヤーの初めから――絶対であるとともに無限であるアートマの完全な自覚を意味する。
 教会の教父たちに従えば、「神が人となったのは、人が神になるためであった」。大胆不敵でありつかみづらい公式であるが、ヴェーダ流に言い換えると、現実が幻想となったのは、幻想が現実となるためである、となる。これこそまさに、啓示と啓示する者、ダルマとアヴァターラの定義にほかならない。


 物質主義と反知性主義の決定的な誤りは、私たちの生の日々の経験が、測りがたいほどに、人間の智の発達の下にあるということを見落としていることだ。もし物質主義者が正しいのであれば、この智は解釈に困るほどの贅沢である。絶対がないのならば、それを把握する能力には何の原因もないことになる。絶対の真理はまさに私たちの精神の本質と一致している。様々な宗教は、私たちの最深の主観性に含まれるものを、客観的に実現する。啓示が大宇宙にあるということは、つまり智が小宇宙にあるということなのだ。超越的なものは世界に内在する。さもなければ、世界は存在しないだろう。そして、内在的なものは個人に関しては超越している。さもなければそれは個人を超えることがないだろう。
 人間の智の領域について語ったことは、自由意志がその本質的目的の超越性を証明するという意味において、意志にも応用できる。その目的のために人間は創造されたのであり、その目的あるがゆえに人間は人間なのだ。人間の意志は神に応じてある。神において、神を通してのみ、意志は完全な自由である。
 人間の魂について、同様の観察もできる。私たちの魂は神を証明する。なぜならそれは神性に応じてある、それは共感、無私の愛、寛容によって―それゆえ、結局の所、客観性によって、それ自身を超越する能力によって――そうであるからである。
 これらの人間の本性の基礎――神性の似像――の中に、「永遠宗教」は根を持つ。


 「永遠哲学」の最も直接的な教義的表現は疑いなく、アートマ、マーヤー、Tat tvam asi(汝がそれである)という諸概念を持つアドヴァイタ・ヴェーダンタである。しかし、この教義は、様々な形態で、すべての偉大な宗教のエソテリスムの中に、場合によっては散発的にではあるが、見出される。このことは、すべての正常な―従って本性的に正統な―すべての宗教が、それ自体永遠の智慧の間接的象徴的な表現であることにおいて、必然的にそうなのである。私たちは先に、キリスト教を要約し、同時に「永遠宗教」を表す教父の公式を引用した。「神が人となったのは、人が神になるためであった」。イスラームにおいては、強調点は神の顕現の神秘に置かれない。神の一性、それゆえ、本性的にそこに含まれる諸結果とともに、神聖なる現実の神秘に、強調点は置かれる。これについての根本的表現は信仰告白である。「神(真の現実)以外に神(諸々の現実)はない」。イスラームにおいて、救うものは、まずは神の顕現ではない。救うものは、神の一性を、智による受容である。その上で、ここからすべての諸結果が引き出されるという事実を受容する。
 真の現実を識別すること、それに精神集中すること、正しく言えば、私たちに接近できるかぎりにおいてそれに精神集中すること。それが道であり、それのみがある。キリスト教では、真の現実は――人間の救済の観点によって――あたかもその人間的顕現、キリストによって吸収されたかのようである。精神集中は、キリストとの一致を通して、そのために役立つすべての形式の祈りと修道を通して実現される。それぞれに応じた恩寵を与える秘蹟も忘れないように。道徳的順応はへりくだりと愛を要求する。この点でキリスト教は、これらの徳を与える、独特の感情的色彩によって以外に、他の精神的観点と区別することが出来ない。(原註1)


(原註1)秘蹟、使徒継承、口伝、最初の七公会議の決定はキリスト教にとって本質的である。多かれ少なかれ、これらの諸要素を拒否することによって、プロテスタンティズムは形相的異端となったように思われる。しかし、見逃してはならないのは、この運動は私たちが「精神的元型」と呼ぶだろう摂理の結果であるという事実である。その法則は外形的伝統に必然的に伴うわけではないが。洗礼と、聖書、信仰、祈り、道徳に基づく厚い敬虔は救済にとって十分である。少なくともそこには世俗的放蕩はない。この留保は、もちろんカトリックにも同様に適用される。ともかく、もともとのルター主義、カルヴァン主義を、その後の「リベラルな」プロテスタンティズムの欠陥について訴えてはならない。ルター派の敬虔の頂点においてキリスト教エソテリスム、すなわちベーメとその系列――薔薇十字団も忘れないように――が開花したという事実を見逃してはならない。


(つづく)





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ルネ・ゲノン『ヴェーダンタによる人間とその生成』(Wikipediaより)

2010/04/23 20:12
『ヒンドゥー教研究序説』は、その諸目的の中に、東洋の知の研究を開くために必要な知的基礎を提供するというものがあった。ヒンドゥー教研究は、『ヴェーダンタによる人間とその生成』に引き継がれ、そこではヴェーダンタに基づく人間の確立という特定の観点が取り上げられている。ルネ・ゲノンが言うには、彼の目的はすべてのヴェーダの教義の体系的解説(「それはまったく不可能な仕事だ」)ではなく、この教義の特定の点について思考すること(この場合は、のちに形而上学の他の側面を熟考するために人間を定義すること)である。
 まずはじめに、ヴェーダンタの本質、「ヴェーダの締めくくり」としてのその深い意味、並びにシュルティとスムルティの伝統的意味を精密に分析する。

シュルティとスムルティの区別は、根本的に、瞑想的智的直観と反省的意識との区別と等しい。前者が「聴く」の原始的意味を負う語によって描写されるとすれば、これはまさに、その直観的性格を示すためである。ヒンドゥーの宇宙論の教義によれば、音は諸感覚において原始的位置に属するからだ。

 ミーマンサ(プルバ・ミーマンサ、ウッタラ・ミーマンサ)、ウパニシャッド、ブラフマ・スートラなどの根本テキストが、ヒンドゥーの宇宙論とともに並置され、それらの起源に関連する「作者」という世俗的観念に対する「智的機能」という観念が提示される。
 それから、「真我」「非顕現」と普遍的「顕現」の考察が導入される。「普遍的顕現」とは、存在するすべてのものであり、その展開は、運命に向かって継続的に前進する存在である。「非顕現」とは、普遍的顕現を超えるすべてであり、それゆえ、否定によってしか説明されえない。第2章もまた、「真我」と「我」、もしくは「人格」と「個人」の根本的区別を確立する。前者は「絶対的現実」である唯一の存在である。これらの考えは、まずもって、思考された異なった現実の諸段階に応じて、また、瞑想されうる「超越的」そして「内的」な観点からも、様々に区別されるようになる。イーシュワラは「神的人格」もしくは、普遍的顕現の原理である。それは非顕現である。というのも、顕現の原理はそれ自体顕現されえないからだ(これは「黒頭」の象徴と関連している。イシュワラの頭は「暗闇」の中にある)。アートマ、パラートマ、ブラフマー。何であれ存在するものと関連する真我は、実際アートマにほかならないという理解が、ヒンドゥー教における「解脱」という教義の核心である。この教義はイスラーム・エソテリスムにおける「究極の一致」(つまり、ヒンドゥー教ではアートマとブラフマーの一致)とまったく同じものである。

「究極の一致」という表現はイスラーム・エソテリスムから借用した。この点そして他の多くの点においてイスラーム・エソテリスムの教義は、形式において大いに違うけれども、根本的にヒンドゥー教の伝統と同じである。

 もし「究極の一致」(あるいは「モクシャ」すなわち「解脱」)が、現成によって可能なのであれば、それがなぜなのかといえば、まさに人間存在の心髄(身体の器官と混同しないように)においてブラフマーの旅(ブラフマ・プーラ)が見いだされるからである。
 人間存在の中心にあるのは、プルシャ、すなわち、人間の内にあると考えられるブラフマーである。プルシャは、顕現を生み出すために、他の原理との関連に侵入せねばならない。そうした侵入は、プルシャの最高度の側面に関してはまったく存在しないものではあるが。というのも、真実には、相対的な意味において以外には、究極原理以外の他の原理は存在しないからである。この場合プルシャと相関するものはプラクリティである。それは未分化の根元的質料であり、女性性として表現される受動原理である。プルシャ、もしくはプマスは、能動原理であり、男性性を表す。これら二つは、それら自身は未顕現のままにとどまるけれども、すべての顕現の二つの極である。これら相補的諸原理の統一が、個々の人間存在の統合的発展を生み、それは相対的に個々人に適用される。そこから、個々の顕現のすべての諸段階が説明され、名づけられる。とりわけ、タンマトラス、心すなわち、内的外的な諸能力を調整する役割を持つマナス、そして目覚めの状態、夢の状態、深い眠りの状態の諸区別が。
 すべての真の精神的道の究極的目的である「最終解脱」もしくは「究極の一致」に至るまでの、諸個人の諸能力の死後の状態への、または精神的な実現過程への再吸収の記述で終わる。


http://en.wikipedia.org/wiki/Ren%C3%A9_Gu%C3%A9non



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ルネ・ゲノン『ヒンドゥー教研究序説』(要約;Wikipediaより)

2010/01/23 20:54
 この本は1921年に出版された。いくつかのトピックは1925年12月17日にソルボンヌ大学での講義(東洋形而上学)で取り上げられた。4部からなる。
 第1部「予備的問題」は古典的東洋学者を東洋の教義の深い理解から妨げている障碍を詳述している(もちろんルネ・ゲノンが当時のオリエンタリズムを視野に入れていたことを忘れないように)。それは、すべての文明をギリシャ人とローマ人に帰する性向を構成する「古典的偏見」であり、古代の人々の間の諸関係に関する無知、言語的無能力、著しくまた不確定な範囲で、公文書に先行しうる口伝の重要性の無視によって生じている、年代学に関する混乱、である。最後の間違いの基本的な例は、ヴェーダ啓典の正確な発生時期を定めようとする東洋学者の試みの中に見出される。
 第2部「東洋思想の一般的特徴」は、東洋文明の統一原理、「伝統」「形而上学」という観念の定義に集中している。ルネ・ゲノンはまた、「宗教」の厳密な定義を提示し、「伝統」「宗教」「形而上学」「哲学体系」の間にある根本的差異を表明している。「形而上学」と「神学」との関係も説明され、「エソテリスム」と「エクソテリスム」という基本用語が導入される。ある章は「形而上学的実現」という考えに専心している。ルネ・ゲノンによれば、一部二部は、ヒンドゥー教教義の正しい理解のために必要な教義的基礎を論じている。
 第3部「ヒンドゥー教教義」は、ヒンドゥー教教義における最も基本的な考えの幾つかを導入している。「ヒンドゥー」という語の伝統的重要性、(宗教ないし神学における対応物と比較しての)形而上学的観点から洞察された正統と異端という観念、ヒンドゥー教における主な聖典の提示、「ダルシャナ」という観念、マヌ法、サナータナ・ダルマ、ヴェーダンタ、ウパニシャッド等々。
 最後の第4部が提示しているのは、ルネ・ゲノンが西洋の誤った解釈と呼ぶものである。大英帝国、アンドロ・サクソンによるプロテスタンティズムの伝道隊、H・P・ブラヴァツキーの神智学の影響下、インドに出現した幾つかの傾向を記述している。アーリヤ・サマジ、ダヤーナンダ・サラスワティとヴィヴェーカナンダの教義等々。


Wikipedia:Rene Guneon




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ルネ・ゲノンの生涯(Wikipediaより)

2010/01/16 14:41
 ルネ・ゲノンは、パリから160キロほど離れた中央フランスの一都市ブロワで生まれた。当時のほとんどのフランス人と同様、ローマ・カトリック教徒の家系である。彼の家族についてはあまり知られていないが、彼の父はおそらく建築家であった。1904年まで、ゲノンはパリで学生として過ごし、数学と哲学を集中的に学んだ。健康を害していたにもかかわらず、優秀な生徒であり、特に数学に秀でていた。
 パリの学生時代、ゲノンはこの都市のオカルト的雰囲気を見出し、参加するようになった。当時は、パピュスの影響が大きかった。「ト・パランジェヌ」という筆名で、定期刊行誌「ラ・グノース」の発行者兼主編集者となり、1922まで記事を書いていた。
フランスのオカルティストや擬似メーソン結社への没入していたゲノンだが、それらの多様でしばしばごたまぜの教義は「堅固な建造物」とは成り得ないと分かり、失望した。彼は『量の支配と時の徴』の中で、フランスのオカルト運動の知的空虚として見たものの指摘もしている。非常に重要なことには、一定の諸個人の疑わしい動機によってそれらは駄目になった、と彼は書いている。
 この時期の前後に(彼の伝記作家P・シャコルナックによって見出された諸徴候による)、ルネ・ゲノンはヒンドゥー教、特にシャンカラチャリヤの秘儀伝授の系統によるものと、道教を知るに至る。彼はまた、1911年には、イスラーム・エソテリスムであるスーフィズムの伝統の秘儀伝授を受けた。そこで彼は「シャイフ・アブド・アル・ワヒド・ヤヒヤ」という名を受けた。彼のスーフィズムへの参入は、イヴァン・アゲリ(アブドゥル・ハディ)の影響によるものであり、当時のエジプトにおけるエクソテリック、エソテリック両方における代表者であるシャイフ・アブデル・ラフマン・エリシュ・エル・ケビルによって行われた。シャイフ・アブデル・ラフマン・エリシュ・エル・ケビルは、カイロのアルアズハル大学のマドゥハブ学派(イスラーム法学派の主要な系列の一つ)の長であり、のちにゲノンは『十字架の象徴学』で彼への献辞を書いている。
 1917年ゲノンはアルジェリアのセティフに一年滞在し、大学生に哲学を教えた。第一次世界大戦の後、教えることをやめ、彼の最初の本であり1921年に出版された『ヒンドゥー教研究序説』の執筆にすべてのエネルギーをそそいだ。1925年からゲノンは、P・シャコルナック編集の雑誌『イシスのヴェール』の共同編集者になった。1935年以後、ゲノンの影響下、この雑誌は『伝統研究』として知られるようになった。
 ヨーロッパの聴衆に対するヒンドゥー教の解説は、当時の多くの東洋学者が各自ばらばらの仕方で試みられていたが、ゲノンの『ヒンドゥー教研究序説』はその主題を独自の洞察的やり方ですすめた。ゲノンが正確に定義した、最も普遍的意味における形而上学と伝統という概念、また、宗教、伝統、エクソテリスム、エソテリスム、神学などのような一見曖昧に見えない用語に必要な区別や定義を参照することによって、である。ゲノンの説明によれば、彼の目的はヒンドゥー教のすべての側面を記述することではなく、その精神のふさわしい理解のために必要な知的基礎を提供することである。この本はまた、一般にヒンドゥー教と伝統についての、他の幾人かのヨーロッパ人による著作を激しく非難している。ゲノンによれば、そのような作家は、彼らが主題とする問題やその意味の、深い理解に欠けている。この本は、、またブラヴァツキー夫人の神智学協会を通じての、ヒンドゥー教(およびインドそのもの)への大英帝国の政治的侵略についての批判的分析も含んでいる。
 1921年にはまた、ゲノンは『フランス哲学レビュー』に記事を寄稿しはじめた。それらはいくつかの補足とともに『神智学協会:ある擬似宗教の歴史』にまとめられた。1920年から1930年の十年間に、ゲノンはひろく公衆の名声を獲得しはじめ、彼の著作はパリの内外で多くの知識人や芸術家によって言及された。この時期に、彼によれば近代文明の特徴である東洋と西洋の「知的分化」を解説した本も出版された。『現代世界の危機』と『東洋と西洋』である。1927年には第二の教義的作品『ヴェーダンタによる人間とその生成』が、1929年には『霊的権威とこの世の権力』が出版された。『霊的権威とこの世の権力』では、ゲノンが「聖職者」(司祭的、聖的)と「王族」(政権的)の力の根本的区別として見たもの、並びに、後者による前者の力の簒奪の否定的結末の一般的説明をしている。これらの考察から、ゲノンは近代の逸脱の起源をさかのぼって、1314年のテンプル騎士団の崩壊に見出されるとしている。
 1930年、スーフィズムの文書を収集し翻訳する目的で、ゲノンはパリを去ってカイロを訪れる。この目論見は編集者の決定によって突然絶たれた。カイロにひとり残ったゲノンは、友人からすべての誘いを断り、フランスへは戻らなかった。日々乏しくなる経済状態にもかかわらず、世界中の多くの国々の同類と熱心に文通し、著作活動も続けた。エジプトに残ることで、ゲノンは、すでに強い親近感を表明していたスーフィズムと古代のエソテリスムという文化的環境にさらされていたが、彼のヨーロッパへの帰還の拒絶は、疑いなく彼にとって困難をもたらした。あたかもこの困難を代償にしてのように、ゲノンは、のちに自ら参入することになるハミディヤ・シャドゥヒリヤというスーフィー教団の長、シャイフ・サラマ・ハッサン・アリ・ラディと会う幸運を得た。ゲノンは、1938年にこのシャイフが死ぬまで、彼と共にいた。同じ頃、ゲノンは別のスーフィー、シャイフ・モハンマド・イブラヒムに出会い、彼の娘と1934年に結婚した。この結婚で4人の子供が生まれた。末の子(アブデル・ワヘド)は1951年に生まれている。エジプトでの長い滞在の間、ルネ・ゲノンは禁欲的でシンプルな生活を送り、著述と霊的発展にいそしんだ。1949年、彼はエジプトの市民権を得た。
 彼の友人や協力者に請われて、彼が若い自分パリで遭遇した他のロッジが信じているような非正統的なものの付加を排除した、「伝統的」諸観念の上に築かれた新たなメーソンロッジをフランスに設立することに、ゲノンは同意した。このロッジは「ラ・グランド・トリアード」と呼ばれた。ゲノンの著作の一つにインスパイアされた名である。しかしながら、ロッジの最初の設立者たちは、設立後数年で離脱した。とはいえ、このロッジは、フランスのグランド・ロッジに属し、現在でも活動している。
 ルネ・ゲノンは1951年1月7日に亡くなった。記録によれば、最後の言葉は「アラー(神よ)」だった。


Wikipedia(English):Rene Guenon
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フリッチョフ・シュオンの思想(Wikipediaより)

2009/09/08 19:21
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諸宗教の超越的一致


 伝統主義者あるいは永遠主義者の見解は、1920年フランスの哲学者ルネ・ゲノンにより、また1930年フリッチョフ・シュオン自身により、言明されはじめた。ハーヴァードの東洋学者アーナンダ・クマラスァミとスイスの美術史家ティトス・ブルクハルトもまた、この見方の代表的弁護者である。根本的には、この教理はヒンドゥー教のネオ・ヴェーダンティストのサナターナ・ダルマ――永遠宗教――のそれである。それはおそらく、古代ギリシャにおいて、とくにプラトンやネオプラトニスト、キリスト教においてはマイスター・エックハルト(西方)、グレゴリオ・パラマス(東方)によって定式化されたものである。すべての宗教は、文字通りの意味の他に、本質的で原始的で普遍的な、エソテリックな次元を持つ。この智的普遍性はシュオンの著作の大きな特徴であり、それは様々な霊的伝統のみならず、歴史、科学、芸術への魅惑的な洞察を与えている。
 シュオンの著作に支配的なテーマもしくは原理は、自らの文化を伝える目的で、セネガルの村民とともにスイスに来た黒人のイスラム導師との初期の出会いに予兆されていた。若いシュオンが彼と話した時、尊敬すべき老人は地面に放射状の線のある円を描き、説明した。「中心は神、すべての道は神に通じている」


形而上学


 シュオンにとって、純粋形而上学の真髄は、以下のヴェーダの主張に集約されうる(アドヴィタ・ヴェーダンタと同様の見解は、イブン・アラビー、マイスター・エックハルト、プロティヌスにも見出せるが)。Brahma satyam jagan mithya jivo brahmaiva na'parah.(ブラフマンは現実、世界は幻想、自己はブラフマンと異なるものではない)
 シュオンによって説明された形而上学は、非二元的な絶対者(超存在)と現実の諸段階という教理に基礎を置く。絶対的なものと相対的なものとの区別は、シュオンにとって、アートマン/マーヤーのペアに照応する。マーヤーは宇宙的幻想であるだけでなく、高い視点からは、マーヤーは無限者であり、神聖なる相対者、さもなくば、究極原理の女性的側面(mahashakti)である。
 別の言い方をすれば、絶対者であることで、超存在は至高善(Agathon)であり、その本性により、マーヤーの放射を通してそれ自身を伝達しようとするものである。第一存在(Ishvara)から現実の最低段階である物質(Prakriti)への顕現全体が、確かに至高原理(Brahman)の放射である。世界の創造因として考えられた人格神は、相対的な絶対者に過ぎず、マーヤーの頂点における、超存在の最初の分別である。それは至高の自己(Atman)であり、内的本性においては、光をもたらす意識の光線である智恵(buddhi)、マーヤーの中のアートマンの軸上屈折である。


永遠宗教


 シュオンは、主にフランス語で書かれた二十冊以上の著作において、形而上学的な諸原理と、人間の生の霊的・道徳的諸側面について説明している。シュオンの永遠宗教はそれ独自の教義と実践を持つ新宗教と呼ばれることはできない。シュオンにとって、永遠宗教は、根本宗教であり、魂の宗教、心の宗教である。すべての正統な伝統においてエソテリストは、多かれ少なかれそれに直接触れるが、永遠宗教を独立に実践するということは問題にはなりえない。宗教の形態は大なり小なり透明なものだが、宗教の多様性は否定されない。その存在理由は形而上学的に説明されるからだ。一方で、形式上宗教はupaya(天界的戦略術)であり、永遠宗教の中心的本質に重ねあわされている。他方で、宗教の諸形態は聖なる言葉それ自体の多くの元型に対応している。宗教の諸形態は神によって意志され、それぞれの宗教は、絶対者それ自身の視野によって特徴づけられた、特殊かつ同質の宇宙に照応している。
 したがって、永遠主義者の見解自体、本質的に形而上学的、秘教的、原始的かつ伝統的なものとして特徴づけられうる。シュオンにとって、啓示された宗教の外側に霊的道は存在しない。啓示された宗教は、霊的求道者に、形而上学の教理と霊的方法、美と聖性の霊的環境を提供する。


霊的道


シュオンによれば、霊的道は、本質的に、現実と非現実(Atma/Maya)との区別に基礎を置き、真の現実と徳の実践に精神集中する。人間は真理を知らねばならない。真理を知ることで、彼らは善を意志し、そこに集中する。これらの二つの面は、形而上学的教理と霊的手段に対応している。真理を知り、善を意志することで、人間は結局、徳を通して彼らの魂の中、また、自然の中にもある美を愛さねばならない。この点でシュオンは本物の霊的求道者が現象の形而上学的透明性と彼が呼ぶものに気づくことの重要性を説いてきた。
 シュオンは教理的また実践的レベルでの、霊的生活の様々な側面について書いている。彼は、霊的実践の諸形式について、それらが様々な伝統世界において顕れている様を説明している。とりわけ、ヒンドゥー教によって、カーリ・ユガの終末において、霊性の実現の最善にして最高の手段と考えられている、聖名の朗誦(ズィクル、ジャパヨーガ、心の祈り)について書いている。ヒンドゥー教の聖者ラーマクリシュナによって記されてきたように、朗誦の道の秘密は、神と神の名は一つであるということだ。


本質的エソテリズム


 ゲノンは二十世紀初頭、すべての宗教には二つの面があるということを指摘した。エソテリズムとエクソテリズム。シュオンは、エソテリズムそれ自体、二つの面があると説く。一つはエクソテリズムの延長であり、もう一つはエクソテリズムとは独立である。というのも、形式がある仕方で本質であるのが真ならば、本質は逆に、一つの形式によっては完全には表現されないからだ。水滴は水であるが、水は水滴ではない。この二番目の側面が本質的エソテリズムと呼ばれる。というのも、それは制限されていない、もしくは、単独の形式や神学学派によっては、つまるところ、特定の宗教形態自体によっては、完全には表現されないから。
 この本質的エソテリズムと永遠宗教は、セム唯一神教においては、聖処女マリアによって代表される。ペルシャのスーフィー、ルズベハン・バクリによれば、マリアは、すべての預言者と予言の母であり、根源的聖者性の母体である。


美は真理の輝き


 シュオンは芸術家でもある、より正確には、画家であり詩人である。シュオンの芸術の主題は、一方で、プレーン・インディアンの世界であり、他方で、宇宙的・人間的女性性の神秘である。晩年の3年間、彼はほぼ3500の教訓的な詩を、母語であるドイツ語で書いた。
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フリッチョフ・シュオンの生涯(Wikipediaより)

2009/09/06 19:10
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 シュオンは、1907年6月18日、スイスのバーゼルで生まれた。彼の父は南ドイツ出身、母はアルザス系である。シュオンの父はヴァイオリニストであり、音楽のみならず、文学や霊性文化豊かな家庭であった。父の突然の死まで、シュオンはバーゼルで育ち、そこの学校に通っていた。父の死後、母は他の二人の息子を連れて、フランスのムルーズに戻り、シュオンはフランス国民となることを余儀なくされた。幼児期にドイツ語を習い、その後フランス語で教育を受けたことで、人生の初期に二つの言語を習得した。
 若い時分から、シュオンは形而上学的真理を探求し、ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターを読むに至った。ムルーズに住んでいる間に、彼はフランスの哲学者にして東洋学者のルネ・ゲノンの著作と出会った。それらは、彼の知的直感を確信せしめる事に役立つとともに、彼が発見しはじめた形而上学的原理への支持を供給した。
 シュオンはフランス軍で一年半従事した後、パリに旅立った。そこで彼はタイルの装飾士として働き、地方のモスク付属学校でアラビア語を学びはじめた。パリでの生活によって、以前に増して、様々な伝統美術、特に若い頃から深い親近感を覚えていたアジア美術に接する機会を持った。伝統世界への知的・美術的親しみの時期に続き、1932年シュオンはアルジェリアへの最初の訪問をした。そこで、著名なスーフィーの師であるアフマド・アル・アラウィーに出会い、彼の教団に入門した。1935年の二回目の北アフリカへの旅では、アルジェリアとモロッコを訪れ、1938年と1939年との間に、彼はエジプトに旅し、そこでゲノンと出会った。その後20年間に渡り、二人は文通をする。1939年、インドに到着した後すぐに、第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパに帰らざるをえなくなった。フランス軍に従事し、ドイツ軍の捕虜として過ごした後、スイスに避難した。そこで彼はスイス国籍を得、40年間住むことになる。1949年彼は結婚した。彼の妻は、フランスの教育を受けたドイツ系スイス人であり、宗教と形而上学に興味があった上、才能ある画家でもあった。
 第二次世界大戦が終わったあと、シュオンは、アメリカ西部への旅の招待を受ける。そこで彼は、常に深く興味を抱いていたプレーン・インディアンとともに幾月か過ごした。フランス語で教育を受けたため、シュオンの主要な著作はすべてフランス語で書かれている。1953年には英語の翻訳がはじめて出た。彼の最初の本『諸宗教の超越的一致』(ロンドン、フェイバー&フェイバー)について、「私は今までに西洋と東洋の宗教に関する比較研究においてこれほど印象深い著作に出会ったことがない」とT・S・エリオットは書いている。
 著述を続ける一方、シュオンと夫人は広範囲を旅した。1959年、また1963年には、スー族クロー族のアメリカ・インディアンの友人たちの招待で、アメリカ西部に旅している。ネイティブ・アメリカンの好意で、彼らは、多数のプレーン・インディアンの部族を訪問し、彼らの神聖な伝統の諸側面を観察する機会を得た。1959年、シュオンと夫人は、ジェームズ・レッド・クラウドのスー族の一員となった。何年か後、同様にクロー族の医師でありサン・ダンスの首長であるトマス・イエローテイルに受け入れられた。 
 ネイティブ・アメリカンの宗教の中心的儀礼に関するシュオンの著述および、彼らの生き方についての心に残る美しい彼の絵画は、プレーン・インディアンの霊的世界へのシュオンの特別な親愛を証言している。彼らの旅としては他に、アンダルシアやモロッコ、また、1968年エフェソスの聖処女の家への訪問がある。1980年、シュオンと夫人はアメリカに移住し、1998年の彼の死まで、そこで著述を続けていた。
 彼の多くの著書と論文を通して、シュオンは霊的師、そして伝統学派のリーダーとして知られるようになった。スイスにいる間は常に、東洋西洋問わず、著名な宗教学者や思想家の訪問を受けていた。
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フリッチョフ・シュオンとは?(Wikipediaより)

2009/09/05 18:37
 
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 フリッチョフ・シュオン(1907/6/18−1998/5/5)は、スイスのバーゼル、ドイツ系の両親の下に生まれた生粋のスイス人である。彼は、哲学者、形而上学者、宗教と霊性に関する多くの著作の著者として知られている。
 シュオンは、哲学、霊性、宗教の権威、永遠宗教(Religio Perennis)の解説者、永遠学派(Perennialist School)の主要な代表者の一人と理解されている。彼は公式にはアカデミックな世界に加入したことがないが、彼の著述は学門的、哲学的学術誌において、比較宗教学や霊性の学者たちに注目されてきた。現代のアカデミックな世界の相対主義への批判は、彼の教説の主要な側面のひとつである。その教説においてシュオンは、絶対原理、神への信仰を表明している。神とは、宇宙を支配し、死後私たちの魂が帰還する者である。シュオンにとって、偉大な啓示は、この絶対原理である神と人間とを結ぶものである。彼の大部分の著作はフランス語で書かれている。晩年、彼は詩集を母語であるドイツ語で編んだ。彼のフランス語の論文は約二十冊ほどにまとめられ、後に英語や他の諸言語に訳されている。


Frithjof Schuon:Wikipedia(English)

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フリッチョフ・シュオンの著作

2009/09/02 20:30
アマゾンリスト
「フリッチョフ・シュオンの著作」
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