Logic and Metaphysics

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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(2)

<<   作成日時 : 2010/04/25 19:13   >>

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 ユダヤ教について特徴的であるのは、それが選民とのパートナーとしての神に強調点を置いているところだ。両者をつなぐものが律法である。律法に強調点があると言ってもよい。神とイスラエルの間に据えられているので。イスラエルが神の民であるとすれば、神はイスラエルの神である。その契約はシナイの律法によって封印された。神とその民の間のドラマは、宇宙のリズムとすべてのものの絶対への還元という二重の観点から、そのすべての両義性と最終的な栄光とともに、アートマとマーヤーのドラマを反映している。
 セム系宗教、またアーリア系宗教とすらまったく異なっているものは仏教である。なるほどそれ自体は、アーリア的有神論敵宗教の頂点において発生したものではあるが。この観点では、絶対―無限は客観的神性の形をとらない。客観的神性とは、同時に超越的にして内在的であり全能であるが、――少なくとも先験的には――実際、すべての想像的状態、存在を超え、まさに絶対的で無限の状態である内的状態の観点から唯一のものとして現れるものである。ニルヴァーナという観念は、明らかに非―神論的であるが、「無神論的」では決してない。というのも、それは絶対、無限、完全なる現実という観念を含意し、見かけの上で、また形と情の世界と比較する場合を除いて、無であることができない。他の観点からすれば、ニルヴァーナは、仏陀という形態において客観化している。それは、すでに引用している教父の公式に連れ戻す。次のように言い換えられよう。ニルヴァーナ(神性の状態)がサムサーラ(世界)となったのは、サムサーラがニルヴァーナになるためであった。今、サムサーラとなったニルヴァーナとは、事実、ロゴスあるいはアヴァターラとしての神である仏陀にほかならない。


 まさに「永遠哲学」という表現、それから、それを使用してきた人々が、ほとんどトミストであり、すなわちアリストテレス主義者であるという事実は、疑問を生じさせる。この文脈においては、ギリシャの智慧の価値に関してである。一般的にはそれは単なる人間の思考体系として提示されているからなおさらそうだ。まず、ギリシャの智慧という言葉によって意味するのは、古典的古代ではなく、本質的にピタゴラス派に根を持つプラトニズムとプロティノス派によるその継承である。この基礎の上において、アリストテレス主義をも受容できるが、それが――ムスリムの哲学者の精神においてのように――広義の意味でのプラトニズムと結びつけられ、従ってそれがあたかもプラトニズムの特定の二次的な次元であるかのようになっているという明確な条件の上で。(原註2)ギリシャの智慧は、一方で秘儀への参入、他方で道徳の実践を前提している。基本的に、それは知識と関連しない事柄を扱う時でさえ、グノーシス――ヒンドゥー教のジナーナ――に属する。従って、アリストテレス主義はジナーナではないが、にもかかわらず、それはこの秩序に特別に属する観点に由来する。アリストテレス主義は、それ自体世界、科学、経験に開くという間違いを犯した形而上学であるが、それらすべてにもかかわらず論理的に妥当なものである。プラトニズムは天国、元型、永遠の価値を瞑想する。
 一方で、ギリシャ精神は――アリストテレス主義を通して、だが、結局の所ソフィストと懐疑家を通して――世俗的合理的哲学への逸脱を引き起こしたが、それは――とりわけプラトニズムを通して――セム系起源の様々な神学ばかりでなく、それらに伴い、それらに重なる秘教の思索に対しても、大変有益な諸要素を提供している。忘れるべきではないが、スーフィーの中には、プラトンをある種の預言者ととるものもおり、マイスター・エックハルトは、キリストが生まれる前に道を見いだした「偉大な司祭」と呼んでいるのだ。


 ある意味、ギリシャ哲学の反対物に置かれるのは――疑いなく、私たちがそれに言及することに驚く人々もいるだろう――一般にはシャーマニズムと呼ばれるものに分類される、共通点のないばらばらの諸伝統である。一方で、この伝統の流れ、根元的伝統の時期遅れの証人は、古代の中国の宗教を生み、その後、二つの相補的な結晶、儒教と道教を生んだ。その上、この流れに古代のモンゴルの宗教、神道、同様にボン教が属する。他方で、この同じ流れはアメリカ・インディアンのシャーマニズムにおいて表される。それはアジアにおいてとったのとは違った諸形態においてではあるが。とはいえ、アメリカのシャーマニズムはアジアと共通の特徴を持つ。――それはすべての北方のシャーマニズムの特徴でもある――すなわちそれは、自然現象の崇拝、それゆえ、ある種の内在的「汎神論」に見いだされる。(原註3)別の言い方をすれば、それは無垢の自然を聖なる原理の顕現にほかならないものと見なす。(原註4)
 明らかに、シャーマニズムの関心は、魔術や呪文の濫用にあるのではない。その根は無垢の自然、聖なるものの原始的感覚に、それゆえ、その礼拝表現の「原始性」にある。そこには、そこからシャーマンの機能が外的に生じるところの「神がかりの預言」という特徴的な現象も含まれる。シャーマニズムの聖典は、書物の中にではなく、一方で自然の象徴、他方で魂の実質の中にある。そのうえ魂は、外部世界の反映であり延長である。一方でこの宗教の教義が自然環境の徴によって表現され、他方で魂が、道徳的儀礼的に、見かけから離脱し、それ自身の超自然的本性との接触に入ることが可能な限り神秘に接近するがゆえに、上のことが言えるのである。(原註5)これらすべては原理的にも実際的にも真実である。シャーマニズムの大部分が退化してしまったことも忘れてはならない。しかし、ここで問題となるのは偶然的な人間的事実ではなく、予想される原理とその根元的現実である。
 これらの根元的伝統の生き残りは人間の使命に気づいているすべての人間に宛てられたメッセージを含んでいる。これは、最も謙虚な花や星を含む無垢の自然によって構成される宇宙的聖域の聖なる性質の意識である。それはまた、心の深奥における、唯一にして全体的な啓示の内在性の自覚でもある。しかし、この真理は実際には、シャーマニズムが私たちに与えることのできなものである、次のこと無しには無である。すなわち、統合的教義であり救済する道としての「永遠宗教」は、人間の偉大であり本性的に正統な諸伝統に内在するものであるということ。人が捜し求めるべきであるのは、そうした諸伝統の中にであって、他の所ではない。


(原註2)ストア派に関しては、その道徳的イデアリズムへの関心、まさにその理由のために及ぼした影響にもかかわらず、この総合の中に入れるのはためらわれる。その汎神論的内在主義は、英雄的徳に特化された意図的に断片的な観点とも、純粋かつ単純な異端とも見られうる。
(原註3)ある意味知ることが難しいのは―私たちはこの単純な事実問題を探求する意図はない――たとえばアフリカ人のように、書いたものを所有していない人々の伝統がシャーマニズムに属するかどうか――もちろんモンゴルはそうではない――あるいは、それらは異なった原始の流れの支流なのかどうかである。これは、彼らの今日の状態とは独立のことである。
(原註4)「私たちの聖書は自然である」とアメリカ・インディアンは言う。「そして私たちは霊感によって読む」。このことに、この宗教が、即興の問題ではないこと、――統合的かつアプリオリに――たとえ、今日の世界においてインディアンであったとしても、すべての人間にとって接近できるものではないということを加えるのは不必要なことである。禅もシャーマニズムの神がかりの預言と同様の原理に基づくと言える。この原理は、私たちの時代において、最も基本的な伝統的規範を軽蔑した、最も危険なまがい物を生み出している。「あなた自身の中にすべてを探しなさい」と偽預言者は言う。彼らはどのようにしてかは説明せず、結局、諸条件を受け入れ、創造する一方、まったくの逆方向に向かう。次のロゴスの警告にもかかわらず。「集めるものは散らすものではない」、同様に「私なしにはあなたは何もできない」


(おわり)



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