Logic and Metaphysics

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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「啓示の多様性」(1)

<<   作成日時 : 2010/05/05 18:42   >>

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 唯一の真理があるのだから、唯一の啓示、唯一の伝統だけが可能であると結論せねばならないだろうか? これにはこう答える。まず、真理と啓示はまったく同等ではない語である。なぜなら真理は形を超えており、他方、啓示もしくは伝統は形から成り、形の世界に属するからである。定義上確かにそうなのだ。ところで形について語ることは、多様性、すなわち多数性について語ることである。形の存在と本性の根拠は、表現であり限定であり差異である。形の中に入るものはまた、数の世界、すなわち多様性の中にも入る。形式原理は――聖なる可能性の無限性に霊感を与えられて――この反復へ多様性を与える。たしかに、私たちの人間世界には唯一の啓示ないし伝統のみがあり、私たち人間によって知られない、あるいは知ることすらできない他の諸世界において多様性が実現していると考えることはできる。しかしこれは、真理の形の違いを決めるのは受け入れる人の器の違いであるという事実を理解しそこねている。何千年もの間、人類は、多かれ少なかれそれ自体で完結している多くの完全な人間性として形作られた、幾つかの根本的に多様な支流へと枝分かれしてきた。精神的な器の存在がこれほど違い、これほど独自であるということが、一つの真理の様々な屈折を要求している。これはつねに民族の問題というわけではなく、非常に多様ではあるが、にもかかわらず全体として彼らを十分に同質の精神的器とする心理的諸条件に従属している人間集団の問題であることを明記しておこう。この事実は、個人をその集団の枠組から飛び出すことを妨げないけれども。というのも、人間集団は決してこのことについて絶対的なものではないからである。そうであるならば、様々な諸啓示は決して相互に矛盾しない、なぜなら、それらは同じ器に適用されておらず、神は決して異なった性格を持つ二つ以上の器に同じメッセージを送らないからである。これはたとえれば、形式的に不一致である諸次元に対応している。矛盾は、同じレベルに置いたものの間でのみ生じる。諸伝統の見かけの諸対立は、言語や象徴の違いのようなものである。矛盾は人間の器の観点のことであり、神のそれではない。世界における多様性は、聖なる原理からの隔絶の結果である。創造神は、世界が存在すると同時に存在しないことを意志することはできない、ということなのだ。
 もし啓示が相互に相反するならば、これは必然的なことである。なぜなら神は、彼が語る際、絶対的な仕方でみずからを表現するからである。しかしこの絶対性は、形式よりも普遍的内容に関わる。相対的象徴的意味においてのみ内容は形式に適用される。形式は内容の象徴であり、まさにこの内容が宛てられている所の全体としての人間性の象徴でもある。学者がするように、神が多様な啓示を外部から比較することなどできない。神は、それぞれの啓示の唯一の中心として自らを保つ。啓示が絶対的な言葉で語るのは、神が絶対的だからであって、その形式が絶対的だからではない。言い換えれば、啓示の絶対性はそれ自体の絶対性であって、その形態の絶対性ではない。
 聖なる諸啓典の言語は聖なるものであるが、同時に必ず人間の言語である。人間のために作られたのであり、間接的な仕方でのみ聖なるものでありうる。神と私たちの表現手段との通約不能性は諸聖典に明らかであり、そこでは私たちの言語や論理はともに天の意図に適していない。不死ではない者の言語は、アプリオリに、永遠の相から物事を見ていない。創造されざるコトバは、創造された言葉を粉砕し、それを真理へと方向づける。この仕方で、それは人間の論理と関連して、その超越性を表す。言葉の聖なる意味に達したいならば、人はこの限界を克服せねばならない。そうすれば人は、純粋智の果実である形而上学的智において、また、ある仕方においては、本質的なものに接する際、愛において、これらを克服する。聖なる真理をこの世の真理の諸条件に還元しようとするのは、有限と無限の間にはいかなる共通の尺度もないということを忘れることである。
 啓示の絶対性はその一性を要求する。しかしそのような一性は、その種の一性である事実、つまり、それ自身において、全体的な類にまで達するものを構成する事実を実現するほどのレベルにおいては生み出されることはできない。どういうレベルで考えられようと、真実在のみが唯一である。神、普遍的実体、この実体に内在する聖霊。しかし、啓示のように、「相対的に一的な」事実がある。すべてが相対的なのであり、諸原理さえ例外を許す――少なくとも見かけ上――原理がつかの間のものの中に侵入する限りでは。それゆえ、一性は事実の領域においても生じ得なければならない。もし、一的事実がいかなる仕方でも存在しないのならば、多様性が絶対的なものとなるだろう。それは純粋単純に矛盾である。


(つづく)



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