Logic and Metaphysics

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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「啓示の多様性」(2)

<<   作成日時 : 2010/07/24 10:41   >>

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この二つ、一性と多様性は共に、それ自身を顕すことができなければならない。しかし、二つの顕現は必然的に相対的なものであり、一方が他方を制限する。ここから結果として、一方で多様性は一性を廃止することはできず、一性もしくは唯一性はそれ自身の存在の領野において多様性と矛盾する。いいかえれば、唯一性のすべての顕現において、それを補完する多様性が維持されねばならず、事実、独特の事実は部分においてのみ生じるのであり、宇宙全体においてではない。一定の事実は、その事実が存在することにおいてではなく、一定の環境にとって神を表現する限りにおいて独自のものである。しかしこの存在は、象徴を廃止するのではなく、同じ平面ではあるが、その独自の事実が生じる枠組の外でそれを繰り返す。聖なる言葉を伝える存在は、その神意の領域の内側において一定の啓示の唯一性を廃止しないが、この領域の外側で、神の言葉の顕現を繰り返す。それゆえ、多様性は、唯一性の形而上学的に必然的な顕現を廃止することはないが、特定の枠組の外では、それと矛盾し、その結果、創造されざる、非顕現の言葉のみが、絶対的唯一性を持つことを示すのである。
 もし、啓示が生じた瞬間、それは世界にとって独特であるのであり、単に世界の部分にとってではないという反論があるならば、こう答える。多様性は必ずしも同時に生じず、時間的に連続して拡張していくこともある、と。これは明らかに諸啓示の問題の場合である。その上、事実の唯一性と原理の唯一性を混同してはならない。私たちは一定の時期における、事実の唯一性の可能性を否定しない。しかし、絶対的な意味での事実の独自性は否定する。空間的に独自のものは時間的なそうではなく、逆もまた真である。しかし、これらの存在の諸条件それぞれに内でさえ、事実はその種の独自性だとは言えない――というのも、それは類もしくは質であり、問題となっている特殊性ではない――私たちは時間も空間も測り得ない、私たちを逃れる諸様態はなおさら。
 この全体の教義は、明白に次の例によって示される。太陽は私たちの太陽系において唯一である。しかし、空間的にそうなのではない。私たちは、私たちの太陽と同様に空間的に配された別の太陽を見ることができる。しかし、私たちはそれらを、私たちの太陽とは見なさない。私たちの太陽の唯一性は、星々の多様性によって裏切られるが、それによって、摂理の下にある私たちのものである太陽系内での有効性が失われるわけではない。それゆえ、唯一性は部分において顕されるのであり、部分がにもかかわらず私たちに示す全体においてではない。ゆえに、神の意志によって、それは全体性「である」。もちろん、私たちにとってのみ、その範囲はこれまた神の意志によるが、私たちの心が形態を超えていかない限りにおいてのみではあるが。しかし、この場合でさえ、その霊的効果に関する限り、部分は全体「である」。

 私たちは地上において、多様な人種の存在を見る。この多様性は「妥当」なものである。「真の」人種に対立する「偽の」人種などというものはないからだ。同様に私たちは多様な言語を見る。それらの正当性疑義をはさむ者などいない。同じことは科学と芸術においても真である。さて、この多様性が宗教の領域においては生じないとすれば、すなわち、人間の器の違いに応じて、聖性の項目――形式のそれであって、本質のそれではないが――の多様性が生じないとしたら、驚くべきことである。ちょうどそれぞれの人種の枠組の中で人間が単に「人間」であって、「白人」でも「黄色人」でもないように、それぞれの言語が、それ自身の空間では、ただの「言語」であり、様々な言語の中の一言語ではないように、それぞれの宗教も、いかなる相対化もなしに、達成されるべき目的の観点からは無意味だが、それ自身の平面においては必然的に「宗教」にほかならない。宗教を語ることは「唯一の宗教」を語ることなのである。明示的に一つの宗教を実践することは、暗示的にはそれらすべてを実践することなのだ。
 克服できない障害と衝突する考えや試みは事の本性に反している。人類の民族的多様性と地球の地理的広がりだけでも、すべての人にとってのただ一つの宗教という公理は、まったくありそうにない。むしろ反対に、――少なく見積もっても――宗教の多様性の必要性こそありえそうである。別の言い方をすれば、唯一の宗教という考えは、もし絶対性と普遍性を主張するならば、矛盾を免れない。一方で、その実現は心理的に物理的に不可能であり、他方で、いうまでもなく、そうした主張と、すべての宗教神話の必然的に相対的な性格との二律背反がある。純粋形而上学と純粋な祈りのみが絶対的であり、それゆえ普遍的である。「神話」に関しては、――真理の内在的内容とその効果は別にして――形而上学的、本質的な真理を、一定の人間集団の基礎とすることができるためには不可欠である。
 宗教は、「超自然的に自然な」事柄であり、その真理は――外的な証拠の観点からは――人間の普遍性によって証明される。その結果、宗教現象の多様性と偏在性は、宗教それ自体にとって有利な、力強い主張を構成する。植物が、間違うことなく光に向かうように、人間は誤りなく、啓示、それゆえ伝統に従う。動物の自然本能には、何か不可謬的なものがある。人間の「超自然的本能」もまたそうである。しかし、人間は自然それ自体に逆らうことができる唯一の「動物」である。間違ってそれを侵害するにせよ、それを超え行くにせよ。

(おわり)




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