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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「十字架」(1)

<<   作成日時 : 2010/07/24 20:09   >>

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 もし受肉が神の「下降」を意味するとすれば、キリストは創造の全体と等価であり、ある仕方でそれを包含する。彼は第二の創造であり、第一のそれを浄化し、贖う。彼は十字架によって、存在の悪を引き受ける。この悪を引き受けることができるために、必然的に神は存在となる。創造は、必然的に神からの分離であるがゆえに、十字架はどこにでもある。存在は自らを肯定し、喜びを通して開花する。しかし、喜びは、神をその目的とするのでない限り、罪となる。すべての喜びは、その存在の本質によって神へと向けられている事実において、形而上学的な口実を含むとはいえ。すべての罪は十字架の下で打ち砕かれる。しかし、人は盲目の欲望のみによって成るわけではない。彼は、神を知るという智を享受している。人はすべてにおいて聖なる目的に気づき、同時に「十字架を負い」「もう一つの頬を差し出す」のでなくてはならない。つまり、存在の牢獄の内的論理さえ超えなければならない。その論理は、この世の目には「愚かさ」であるが、この牢獄の世界を超えなければならない。それは「垂直的」すなわち「天上的」でなくてはならない。「水平的」すなわち「地上的」ではなく。
 存在者もしくは「顕現」は二つの側面を持つ。木と十字架。蛇が巻きつく喜びの木、肉と成った言葉の架かる十字架。不敬虔な者にとって、存在は「肉に従った」哲学によって人が正当化した情熱の世界である。選ばれた者にとって、それは恵み、信仰、真智に貫かれた試練の世界である。
 イエスは単に新たなアダムなのではなく、新たな創造でもある。古き者は全体性と周縁である。新しき者は、一性と中心である。

 私たちは十字架を免れえない、存在を免れえないように。存在する全てのものの根底に、十字架がある。自我とは神から離れる下向きの道である。十字架はこの道の中断だ。もし存在が「神の何か」なら、それはまた「神でない何か」でもある。これこそ自我が体現するものだ。十字架は後者を前者に引き戻し、そうすることで私たちに存在の滅却を可能にする。
 存在の問題を複雑にしているものは、神がすべての場において顕現するからである。というのも、神の外には何物も存在できないから。すべての客体は、神聖なるもののこの離れた認識から分離されたことは決してなかった。これこそ、十字架の影において喜びが把握され、避けえないものでさえあることの理由である。存在することは喜びである、たとえ十字架の下でも。ここが、人間が自らを保つべきところである、なぜなら、それこそ深いものの道理であるから。苦難と死は宇宙的肉体に再現した十字架にほかならない。存在は、十字架に印づけられた薔薇である。

 社会道徳はある人間の正しさと、他の人間の間違いを区別する。しかし、キリストの神秘的道徳は、厳密に言って、誰にも正しさを認めない。むしろ彼らを、誰も正しくない地平へと置く。というのは、すべての人間が罪人であり、「神以外に善き者はいない」から(原注1)。モーセの律法には社会に害をを成した人、たとえば姦通者への石打刑がある。キリストにとって、害を成しうるのは、一切の復讐とは無縁の神に対してのみである。全ての人は永遠の者の前では有罪である。すべての罪は、アダムとイヴの罪であり、すべての人間はアダムもしくはイヴである(原注2)。最初の正義の行為は、それゆえ、隣人を許すこととなる。「他人」の罪は、私たち自身の足元にある。隠れた罪が顕わになることが、私たちに共通する実態を構成する。
 しかし、キリスト、彼の王国は「この世のものではない」が、それが避けえない限りにおいて、人間の正義の扉を開く余地を残している。「それゆえ、カエサルのものはカエサルに」。すべての地平においてこの正義を否定することは、結局不正義に終わるだろう。そうであっても、悪をその全体的な根拠、その必然的にあるしかない罪の次元に引き戻すことで結局の所、私たち自身の、すべての自我の本性にそれを見て取ることによって、憎しみを克服することは必然的なことである。自我とは、光線からの断片を成す光学的幻影であり、それが「私たち自身」もしくは「他人」の問題であるかどうかによって逆にもなる。真理を通して、全てを理解し、「全てを許す」寛容さを見出し、すべてを公平な場へと還元することは、必然的である。悪を超え、それゆえその反対物のない平和によって悪を滅することは必然的である。真の平和は、その反対物を持たない。

(原注1)「というのも私自身では何も知ることはない。これによって私が正当化されるわけではない。私を裁く者は主である」(第1コリント書4:4)
(原注2)聖大グレゴリウスの書簡――ベーデ候による「英国国教会史」に引用されている――はこう書いている、「すべての罪は三つの原因からなる。すなわち、誘い、喜び、そして同意。誘いは悪魔から、喜びは肉体から、同意は意志から来る。蛇が最初の罪をさそった。そして肉であるイヴが、肉体的喜びをそこに見出し、心であるアダムがそれに同意する。しかし、最も繊細な智のみ、誘いと喜び、喜びと同意を区別することが出来る」

(つづく)


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