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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「祈りの次元」(1)

<<   作成日時 : 2010/08/16 18:05   >>

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 人は、自らの全てをもって神に見えなければならない。なぜなら、神はすべての存在であるからだ。これが、「すべての力でもって」神を愛せ、という聖書の命令の意味である。
 さて、事実としての人間を性格づける次元の一つは、彼が外界に向かって生きているということ、そして加えて、彼が快楽に向かっているということである。これが彼の外面性であり、彼の色欲である。彼は、神の前でそれらを否認しなければならない。神は私たちのなかに現れ、第二に、人は彼自身の中、感覚現象とは独立に快楽を発見することができるのでなかればならない。
 神に人を近づける全てのものは、まさにこの理由によって、神の至福を共有している。祈りによって、魂のイメージや雑音を超えることは、聖なる空虚と無限を通じた自由である。それは静穏の座だ。
 外的な現象は、その高貴と象徴による天界の元型への参与により、内的な徳を持ちうる。すべてのものは、その時節に従って善でありうる。にもかかわらず、離脱は実現されねばならない。さもなければ、人は、外面性を正当なものとする権利を持たないし、魂にとって死をもたらす誘惑的な外部性や情欲に陥ることになろう。創造主が、その超越によって、創造から独立しているように、人間は、神の観点から世を離れてなければならない。これが人の能力である自由意志である。人間のみが、自身の本能や欲望に抵抗することができる。Vacare Deo.

 人間の他の能力は、理性ある思考と会話である。結果として、この次元は、神との邂逅を通じて実現されなければならない。それが祈りである。人は悪を避けることだけで救われるのではなく、彼はまた、とりわけ、善を成し遂げることによって救われる。最も良い働きとは、神をその対象とし、私たちの魂をその作用者とすることである。これが「神の想起」である。
 祈りの本質は信仰であり、それゆえ、確信である。人はそれをまさに話すことで、表す。あるいは、至高の善への訴えであり、申し入れである。祈り、ないし祈願は、神、そして霊的使命の確信と等しい。
 行動は、その意図に従って正当である。祈りにおいて、いかなる野心に犯された意図があってはならないのは明らかである。それは、天の怒りをまねくすべてのこの世の虚しさを逃れてなければならない。
 真心を込めた祈りは、それを実現する者にだけ有益なのではない。それは彼の周囲に広がり、この観点からいえば、慈愛の行為なのである。

 人はみな幸福を求めている。これは、他の人間の本性の次元である。神の外には完全な幸福はない。この世の幸福はすべて、天の祝福を必要とする。祈りは、純粋な至福である神の現前へと私たちを招く。もし私たちがこのことに気づいているなら、そこに平和を覚えるだろう。聖なるものの感覚を持ち、それゆえ、この神秘に魂を開くものは幸いなるかな。

(つづく)


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