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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「祈りの次元」(2)

<<   作成日時 : 2010/08/17 20:04   >>

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 祈りの他の次元は、一方で人間は死すべき存在であり、他方で不死の魂を有するという事実から生じる。人は死を通らねばならない。そして結局の所、神の御手にある永遠に関わらなければならない。
 人間の根元的な能力とは、形而上学的知識を得ることのできる智性である。結果として、この能力が、瞑想に伴う祈りの次元を規定する。その主題は、まずもって至高原理の絶対的現実であり、そして、それを顕す世界の非現実――あるいは、相対的現実――である。
 しかしながら、人間はその本性を超える意図を持つ必要はない。彼が形而上学者でないのなら、一つであるよう義務付けられていると信じる必要はない。神は賢者を愛するのと同様に子供たちを愛する。神は、子供にとどまるすべを心得ている子供の真摯さを愛する。
 これは、祈りにおいて、すべての人間に課せられている次元があることを意味する。なぜなら、この局面において、問題なのは、人間の大きさ小ささではなく、神の前で真摯にあることだからである。一方で、人間は常に神の前では小さい存在である。他方で、彼が神と対話する時、常に人間には偉大さがある。結局の所、すべての質と徳は至高の善に属する。

 私たちは、原理の絶対的現実、それゆえ、相応して、それを顕す世界の非現実――あるいはより小さい現実――を内容として持つ瞑想的祈りの次元があると言った。
 しかし、「ブラフマは現実、世界は幻想」と知るだけでは十分ではない。「魂はブラフマと異なるものではない」ということも知る必要がある。この第二の真理が私たちに次のことを想起させる。私たちの本性が許す限りにおいて、私たちは、知的なだけでなく、存在的なものとして至高の原理に向かうことができるということを。これは、私たちは単に客観的知識を得ることのできる智性だけでなく、原理上、主観的一致の可能な「私」という意識を所有するという事実から生じる。一方で、エゴは内在的聖性から切り離されている。なぜならそれは顕現であって原理ではないからだ。他方で、原理が自らを顕す限りにおいて、エゴは原理と異なるものではない。ちょうど、鏡の中の太陽の反射は太陽ではないが、にもかかわらず、その反射が太陽光線であり、他の何物でもない限りにおいて、「それと異ならない」ようなものである。
 このことに気づけば、人間は、超越的であると同時に内在的である神の前に立つことを止めることはできない。私たちの瞑想的意識の範囲、霊的運命の神秘を決定するのは、神であって、私たちではない。しかし、私たちは、神が私たちにおいてこの聖なる自己意識をどの程度実現しようとしているかを知ることはできない。それを私たちが知るか知らないかは重要性を持たない。私たちは私たちがそれであるところのものであり、全ては、摂理の下にある。

(おわり)


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