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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「真理と現前」(1)

<<   作成日時 : 2011/03/27 17:22   >>

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 絶対者の救いの顕現は真理でも現前でもある。しかし、それは排他的な仕方であれかこれかなのではない。真理としてそれは現前を含み、現前としてそれは真理を含むからだ。そういうものがすべての神現というものの二重の本質である。それゆえキリストは本質的に神の現前の顕現であるが、しかし彼はそのことによって真理でもある。「私は道であり、真理であり、命である」。絶対者がアプリオリに現前ないし真理であるならば、絶対者の顕現を通して以外に、誰も絶対者の救いの近さに入ることはできない。
 キリスト教においては、現前の要素が真理の要素に先行する。第一の要素が、いわば、真理がキリストという現象と同一視されるという意味で、第二を吸収する。キリスト教の真理とはキリストが神であるということである。ここから三位一体という教理が生じるが、これは、キリスト教の出発点が真理の要素、すなわち、絶対者の教理であるならば意味を成さない。後者は、神は自身を一なる現実として最高の仕方、あるいはセム族の公教によって許される尺度において表すイスラームの場合である。(註1)
 したがってイスラームは救うのは絶対的真理であるという公理に基礎付けられている。もちろん同時にその結果としてその意志にもあてはまる。この見方の公教的限界は、真理のみが救うのであり、現前はそうではないという公理である。反対にキリスト教は、神の現前が救うという公理に基礎付けられる。ここでの秘教的限界は、一方でこの現前のみが救うのであって他のものではなく、他方で、現前のみが救うのであり、真理という要素そのものが救うのではないという公理である。(註2)
 イスラームとともに救うのは真理である――それは絶対者の真理なのだから――と言うことは、真理の結果すべてが引き出されねばならないということ、それは全体として、すなわち、意志と感情と、同様に知性によって受け入れられねばならないということを意味する。キリスト教とともに救うのは現前である――それは神の愛の現前だから――と言うことは、人が、秘蹟的に供犠的に現前の型に入っていくこと――己を神の愛に捧げることを意味する。必然的に、まず愛し、次に意志し、最後に知る――神の愛に関連して知る。対してイスラームでは、人は最初に知らねばならない、その次に意志し、最後に愛さねばならない――そういう図式がこういう問題を表すのに許されるならばだが、神の知に関連して愛する。

 アプリオリに、あるいは公教的には、キリスト教の真理の要素は、既に述べたように、キリストが神であり、キリストのみが神であるという公理である。しかし、アポステオリに、あるいは秘教的には、キリスト教の真理は、一方で絶対者のすべての顕現は絶対者と同一であり、他方で、この顕現が同時に超越的且つ内在的であるということを意味する。キリストが私たちの上にあることで超越的であり、キリストが私たちの中にあるということで内在的である。知であり愛であるものは真心である。真心に入ることはキリストに入ることであり、逆も同様である。智が小宇宙のキリストであると同様にキリストは小宇宙の真心である。「神が人になったのは人が神になるためであった」。真我が真心となったのは真心が真我となるためであった。これが「神の国はあなた方の中にある」という理由である。
 この真智の中で、イスラームとキリスト教は出会う。なぜなら、かりに強調点を智の活動的霊感的機能に置くならば、真心は内在的なクルアーンないし内在的預言者だからである。これをまとめると、イスラームにおいて、現前の要素は、一方ではクルアーンに、他方では預言者によって表現されると言える。この現前の要素に全ての価値を付与すること――イスラームにおける出発点である真理の要素に関連して――は、秘蹟的にユーカリスト的にクルアーンと一体になることであり(註3)、フィトラ、「根源的規範」以外の何物でもないムハンマドという型に入ることで預言者と一体になることである。人は、預言者によって規定され、預言者によって人格化された、守るべきルールの体系、スンナに自らを閉じ込めることでこの型に入る。さてこれらのルールは「水平的」であるとともに「垂直的」でもある。それらは物質的で社会的であると同時に霊的生活にも関係する。
 クルアーンそれ自体も、真理であり現前である。その教理によって、真理は絶対者以外の何物も存在しないこと、神現的秘蹟的性質によって、現前が心髄の祈り、ディクルの源であるということを教える。


註1・この限定が意味するのは、まさに祈祷的主意的観点によって、神学的観点がある主の二元論を避けることができないということである。
註2・イスラームの救いの真理は「真理そのもの」――かくかくの真理ではない――というのもそれは絶対者にかかわり現象にはかかわらないからである。
註3・クルアーンの朗誦に生涯を捧げるムスリムがいる。また、それを理解してさえいなくとも、クルアーンを唱える非アラブ系のムスリムがいる。

(つづく)


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