Logic and Metaphysics

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zoom RSS 中村廣治郎氏のマーヤー理解は間違いである

<<   作成日時 : 2013/05/19 18:03   >>

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中村廣治郎氏のマーヤー理解は間違いである

金田一輝

 イスラム学者である中村廣治郎氏(以下「中村氏」)は最近になって、フリッチョフ・シュオンに言及しはじめている。
 シュオンは、永遠主義(伝統主義とも言われる)の創始者の一人であり、公式にアカデミックな世界に属したことはないが、比較宗教学に関する雑誌などに多数の論考を発表し、宗教に関する世界中の少なからぬ識者に注目されてきた。
 日本においてはいまだほぼ無名のシュオンの思想を紹介している数少ない日本人学者が中村氏であり、その点で敬意に値するし、今後の展開に期待もしている。しかし、中村氏のシュオン理解には疑問点がなくはない。
 ここでは、その内の一点に絞って簡単に指摘しておきたい。それはシュオンの使用する「マーヤー」という用語についてである。「マーヤー」はインド哲学、特にヴェーダンタ学派に現れる概念であり、「幻影」とも「外観」とも訳されるが、シュオン他、永遠主義者らが好んで使用する用語でもある。
 中村氏は、井筒俊彦氏と対比する形でシュオンの「マーヤー」について触れている
(以下、引用は宗教研究 83(4), 1422-1423, 2010-03-30
http://ci.nii.ac.jp/els/110007580360.pdf?id=ART0009404801&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1368946634&cp= より)。

「シュオンは、この現象的存在の根元にある不可知のものをthe Absolute, Beyond-Beingなどと呼ぶが、それはそのままの形で存在するのではなく、常に一定の順序の下に自己を外化顕現し、現象世界に至る。このことは諸宗教に共通するもので、これをesoterismと呼ぶ。諸宗教の違いはただ絶対者が自己を分節化していくその象徴的形式だけである。この形式的側面をシュオンはexoterism、ないしはupayaと呼び、また人間はこの形式を絶対者の顕現としてではなく、実在そのものと見誤ってしまうことからmayaとも呼んでいる。」
「井筒の「東洋哲学」も基本的には同様で、(…)シュオンも、不二一元論におけるアートマンとしての人間の主観的側面についても議論してはいるが、井筒の特徴は、そのようなリアリティの展開を人間意識の認識論的変化に明確に対応させて論じていることである。(…)それを井筒は次のように図式化する:「分節(一)→無分節→分節(二)」。彼は、絶対無分節の境位を経たあとの「分節(二)」には、全存在の無分節的一体性の意識が残っているとして(禅でいう「無分別の分別」、スーフィーのいう「バカー」)、シュオンがmayaとしてそれを否定的にみるのに対して、積極的に評価する。」
(中村廣治郎「フリッチョフ・シュオンと井筒俊彦」)
※太字強調は引用者による。

 ここで中村氏は、井筒氏と対比させる形で、シュオンがマーヤーを否定的にのみとらえているかのように記述している。問題はここである。というのも、シュオンはたしかにマーヤーの否定的側面についても述べているが、その肯定的側面についても同時に述べているからだ。シュオンの著作からいくつか抜粋してみよう。

「マーヤーは「神の技芸」として同時に光でもあり闇でもある。それはアートマーの秘密を顕す限りで光であり、アートマーを隠す限りで闇である。」
(『霊的諸観点と人間的事実』)

「マーヤーは単に「宇宙的幻」であるだけではなく、「神的遊戯」でもある。それは神の偉大なる顕現であり、スーフィーの言葉で言えば、神の内での神による「神のヴェールを取る」ことである。」
(『古代世界へのまなざし』)

「マーヤーという語は「生産力」と「宇宙的幻」の意味を結合している。それは、顕現、展開、結合、反響の無尽蔵の戯れである。アートマーはそれ自体この戯れに覆われている。常に更新され決して同じものではない泡のマントに覆われた海のように。」
(『論理と超越』)

「どのようなイメージであれ、開示ないし展開は存在の投射であり、すべての実質の顕現である。閉鎖は本質の内への再統合であり、潜在的多様性への回帰である。マーヤーという戯れは本質と存在の間のダンスである。存在はヴェールであり、本質は裸体である。」
(『原理と方法としてのエソテリスム』)

「聖なる完全性の顕現は、この完全性それ自体の無限性から来ている。拡張的でもあり制限的でもあるこの次元は、マーヤーないしアル・ヒジャーブ、同時に顕現でも分離でもあるヴェールにほかならない」
(『キリスト教とイスラーム』)

「不二一元論者が示唆するように、マーヤーは単に「幻影」であるだけでなく、絶対的真実に内在する善の必然的付随物である。言い換えれば、実体が善であるなら、それはマーヤーを放射せざるをえない。神が善ならば、神は世界を創造せざるをえない。」
(『宗教の形式と実質』)

 このようなマーヤーの否定的であると同時に肯定的であるという両義性は、シュオンの著作に頻出するテーマであり、シュオンの著作に慣れ親しんでいる者にとっては周知のことである。まさか中村氏が一次文献を読まずに二次文献のみを頼りにシュオンについて書いているとは考えられないが、より深くシュオンの著作を読み込んだ論考を今後期待したい。

(ITSUKI KANEDA, Maya is not also negative, but also positive, 2013)

参考文献:
Frithjof Schuon,
Christianity/Islam, World Wisdom, 2008
Esoterism as Principle and as Way, Perennial Books, 1981
Form and Substance in the Religions, World Wisdom, 2002
Light on the Ancient Worlds, World Wisdom, 2006
Logic and Transcendence, World Wisdom, 2009
Spiritual Perspectives and Human Facts, World Wisdom, 2007

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