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ルネ・ゲノン『ヴェーダンタによる人間とその生成』(Wikipediaより)

2010/04/23 20:12
『ヒンドゥー教研究序説』は、その諸目的の中に、東洋の知の研究を開くために必要な知的基礎を提供するというものがあった。ヒンドゥー教研究は、『ヴェーダンタによる人間とその生成』に引き継がれ、そこではヴェーダンタに基づく人間の確立という特定の観点が取り上げられている。ルネ・ゲノンが言うには、彼の目的はすべてのヴェーダの教義の体系的解説(「それはまったく不可能な仕事だ」)ではなく、この教義の特定の点について思考すること(この場合は、のちに形而上学の他の側面を熟考するために人間を定義すること)である。
 まずはじめに、ヴェーダンタの本質、「ヴェーダの締めくくり」としてのその深い意味、並びにシュルティとスムルティの伝統的意味を精密に分析する。

シュルティとスムルティの区別は、根本的に、瞑想的智的直観と反省的意識との区別と等しい。前者が「聴く」の原始的意味を負う語によって描写されるとすれば、これはまさに、その直観的性格を示すためである。ヒンドゥーの宇宙論の教義によれば、音は諸感覚において原始的位置に属するからだ。

 ミーマンサ(プルバ・ミーマンサ、ウッタラ・ミーマンサ)、ウパニシャッド、ブラフマ・スートラなどの根本テキストが、ヒンドゥーの宇宙論とともに並置され、それらの起源に関連する「作者」という世俗的観念に対する「智的機能」という観念が提示される。
 それから、「真我」「非顕現」と普遍的「顕現」の考察が導入される。「普遍的顕現」とは、存在するすべてのものであり、その展開は、運命に向かって継続的に前進する存在である。「非顕現」とは、普遍的顕現を超えるすべてであり、それゆえ、否定によってしか説明されえない。第2章もまた、「真我」と「我」、もしくは「人格」と「個人」の根本的区別を確立する。前者は「絶対的現実」である唯一の存在である。これらの考えは、まずもって、思考された異なった現実の諸段階に応じて、また、瞑想されうる「超越的」そして「内的」な観点からも、様々に区別されるようになる。イーシュワラは「神的人格」もしくは、普遍的顕現の原理である。それは非顕現である。というのも、顕現の原理はそれ自体顕現されえないからだ(これは「黒頭」の象徴と関連している。イシュワラの頭は「暗闇」の中にある)。アートマ、パラートマ、ブラフマー。何であれ存在するものと関連する真我は、実際アートマにほかならないという理解が、ヒンドゥー教における「解脱」という教義の核心である。この教義はイスラーム・エソテリスムにおける「究極の一致」(つまり、ヒンドゥー教ではアートマとブラフマーの一致)とまったく同じものである。

「究極の一致」という表現はイスラーム・エソテリスムから借用した。この点そして他の多くの点においてイスラーム・エソテリスムの教義は、形式において大いに違うけれども、根本的にヒンドゥー教の伝統と同じである。

 もし「究極の一致」(あるいは「モクシャ」すなわち「解脱」)が、現成によって可能なのであれば、それがなぜなのかといえば、まさに人間存在の心髄(身体の器官と混同しないように)においてブラフマーの旅(ブラフマ・プーラ)が見いだされるからである。
 人間存在の中心にあるのは、プルシャ、すなわち、人間の内にあると考えられるブラフマーである。プルシャは、顕現を生み出すために、他の原理との関連に侵入せねばならない。そうした侵入は、プルシャの最高度の側面に関してはまったく存在しないものではあるが。というのも、真実には、相対的な意味において以外には、究極原理以外の他の原理は存在しないからである。この場合プルシャと相関するものはプラクリティである。それは未分化の根元的質料であり、女性性として表現される受動原理である。プルシャ、もしくはプマスは、能動原理であり、男性性を表す。これら二つは、それら自身は未顕現のままにとどまるけれども、すべての顕現の二つの極である。これら相補的諸原理の統一が、個々の人間存在の統合的発展を生み、それは相対的に個々人に適用される。そこから、個々の顕現のすべての諸段階が説明され、名づけられる。とりわけ、タンマトラス、心すなわち、内的外的な諸能力を調整する役割を持つマナス、そして目覚めの状態、夢の状態、深い眠りの状態の諸区別が。
 すべての真の精神的道の究極的目的である「最終解脱」もしくは「究極の一致」に至るまでの、諸個人の諸能力の死後の状態への、または精神的な実現過程への再吸収の記述で終わる。


http://en.wikipedia.org/wiki/Ren%C3%A9_Gu%C3%A9non



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ルネ・ゲノン『ヒンドゥー教研究序説』(要約;Wikipediaより)

2010/01/23 20:54
 この本は1921年に出版された。いくつかのトピックは1925年12月17日にソルボンヌ大学での講義(東洋形而上学)で取り上げられた。4部からなる。
 第1部「予備的問題」は古典的東洋学者を東洋の教義の深い理解から妨げている障碍を詳述している(もちろんルネ・ゲノンが当時のオリエンタリズムを視野に入れていたことを忘れないように)。それは、すべての文明をギリシャ人とローマ人に帰する性向を構成する「古典的偏見」であり、古代の人々の間の諸関係に関する無知、言語的無能力、著しくまた不確定な範囲で、公文書に先行しうる口伝の重要性の無視によって生じている、年代学に関する混乱、である。最後の間違いの基本的な例は、ヴェーダ啓典の正確な発生時期を定めようとする東洋学者の試みの中に見出される。
 第2部「東洋思想の一般的特徴」は、東洋文明の統一原理、「伝統」「形而上学」という観念の定義に集中している。ルネ・ゲノンはまた、「宗教」の厳密な定義を提示し、「伝統」「宗教」「形而上学」「哲学体系」の間にある根本的差異を表明している。「形而上学」と「神学」との関係も説明され、「エソテリスム」と「エクソテリスム」という基本用語が導入される。ある章は「形而上学的実現」という考えに専心している。ルネ・ゲノンによれば、一部二部は、ヒンドゥー教教義の正しい理解のために必要な教義的基礎を論じている。
 第3部「ヒンドゥー教教義」は、ヒンドゥー教教義における最も基本的な考えの幾つかを導入している。「ヒンドゥー」という語の伝統的重要性、(宗教ないし神学における対応物と比較しての)形而上学的観点から洞察された正統と異端という観念、ヒンドゥー教における主な聖典の提示、「ダルシャナ」という観念、マヌ法、サナータナ・ダルマ、ヴェーダンタ、ウパニシャッド等々。
 最後の第4部が提示しているのは、ルネ・ゲノンが西洋の誤った解釈と呼ぶものである。大英帝国、アンドロ・サクソンによるプロテスタンティズムの伝道隊、H・P・ブラヴァツキーの神智学の影響下、インドに出現した幾つかの傾向を記述している。アーリヤ・サマジ、ダヤーナンダ・サラスワティとヴィヴェーカナンダの教義等々。


Wikipedia:Rene Guneon




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ルネ・ゲノンの生涯(Wikipediaより)

2010/01/16 14:41
 ルネ・ゲノンは、パリから160キロほど離れた中央フランスの一都市ブロワで生まれた。当時のほとんどのフランス人と同様、ローマ・カトリック教徒の家系である。彼の家族についてはあまり知られていないが、彼の父はおそらく建築家であった。1904年まで、ゲノンはパリで学生として過ごし、数学と哲学を集中的に学んだ。健康を害していたにもかかわらず、優秀な生徒であり、特に数学に秀でていた。
 パリの学生時代、ゲノンはこの都市のオカルト的雰囲気を見出し、参加するようになった。当時は、パピュスの影響が大きかった。「ト・パランジェヌ」という筆名で、定期刊行誌「ラ・グノース」の発行者兼主編集者となり、1922まで記事を書いていた。
フランスのオカルティストや擬似メーソン結社への没入していたゲノンだが、それらの多様でしばしばごたまぜの教義は「堅固な建造物」とは成り得ないと分かり、失望した。彼は『量の支配と時の徴』の中で、フランスのオカルト運動の知的空虚として見たものの指摘もしている。非常に重要なことには、一定の諸個人の疑わしい動機によってそれらは駄目になった、と彼は書いている。
 この時期の前後に(彼の伝記作家P・シャコルナックによって見出された諸徴候による)、ルネ・ゲノンはヒンドゥー教、特にシャンカラチャリヤの秘儀伝授の系統によるものと、道教を知るに至る。彼はまた、1911年には、イスラーム・エソテリスムであるスーフィズムの伝統の秘儀伝授を受けた。そこで彼は「シャイフ・アブド・アル・ワヒド・ヤヒヤ」という名を受けた。彼のスーフィズムへの参入は、イヴァン・アゲリ(アブドゥル・ハディ)の影響によるものであり、当時のエジプトにおけるエクソテリック、エソテリック両方における代表者であるシャイフ・アブデル・ラフマン・エリシュ・エル・ケビルによって行われた。シャイフ・アブデル・ラフマン・エリシュ・エル・ケビルは、カイロのアルアズハル大学のマドゥハブ学派(イスラーム法学派の主要な系列の一つ)の長であり、のちにゲノンは『十字架の象徴学』で彼への献辞を書いている。
 1917年ゲノンはアルジェリアのセティフに一年滞在し、大学生に哲学を教えた。第一次世界大戦の後、教えることをやめ、彼の最初の本であり1921年に出版された『ヒンドゥー教研究序説』の執筆にすべてのエネルギーをそそいだ。1925年からゲノンは、P・シャコルナック編集の雑誌『イシスのヴェール』の共同編集者になった。1935年以後、ゲノンの影響下、この雑誌は『伝統研究』として知られるようになった。
 ヨーロッパの聴衆に対するヒンドゥー教の解説は、当時の多くの東洋学者が各自ばらばらの仕方で試みられていたが、ゲノンの『ヒンドゥー教研究序説』はその主題を独自の洞察的やり方ですすめた。ゲノンが正確に定義した、最も普遍的意味における形而上学と伝統という概念、また、宗教、伝統、エクソテリスム、エソテリスム、神学などのような一見曖昧に見えない用語に必要な区別や定義を参照することによって、である。ゲノンの説明によれば、彼の目的はヒンドゥー教のすべての側面を記述することではなく、その精神のふさわしい理解のために必要な知的基礎を提供することである。この本はまた、一般にヒンドゥー教と伝統についての、他の幾人かのヨーロッパ人による著作を激しく非難している。ゲノンによれば、そのような作家は、彼らが主題とする問題やその意味の、深い理解に欠けている。この本は、、またブラヴァツキー夫人の神智学協会を通じての、ヒンドゥー教(およびインドそのもの)への大英帝国の政治的侵略についての批判的分析も含んでいる。
 1921年にはまた、ゲノンは『フランス哲学レビュー』に記事を寄稿しはじめた。それらはいくつかの補足とともに『神智学協会:ある擬似宗教の歴史』にまとめられた。1920年から1930年の十年間に、ゲノンはひろく公衆の名声を獲得しはじめ、彼の著作はパリの内外で多くの知識人や芸術家によって言及された。この時期に、彼によれば近代文明の特徴である東洋と西洋の「知的分化」を解説した本も出版された。『現代世界の危機』と『東洋と西洋』である。1927年には第二の教義的作品『ヴェーダンタによる人間とその生成』が、1929年には『霊的権威とこの世の権力』が出版された。『霊的権威とこの世の権力』では、ゲノンが「聖職者」(司祭的、聖的)と「王族」(政権的)の力の根本的区別として見たもの、並びに、後者による前者の力の簒奪の否定的結末の一般的説明をしている。これらの考察から、ゲノンは近代の逸脱の起源をさかのぼって、1314年のテンプル騎士団の崩壊に見出されるとしている。
 1930年、スーフィズムの文書を収集し翻訳する目的で、ゲノンはパリを去ってカイロを訪れる。この目論見は編集者の決定によって突然絶たれた。カイロにひとり残ったゲノンは、友人からすべての誘いを断り、フランスへは戻らなかった。日々乏しくなる経済状態にもかかわらず、世界中の多くの国々の同類と熱心に文通し、著作活動も続けた。エジプトに残ることで、ゲノンは、すでに強い親近感を表明していたスーフィズムと古代のエソテリスムという文化的環境にさらされていたが、彼のヨーロッパへの帰還の拒絶は、疑いなく彼にとって困難をもたらした。あたかもこの困難を代償にしてのように、ゲノンは、のちに自ら参入することになるハミディヤ・シャドゥヒリヤというスーフィー教団の長、シャイフ・サラマ・ハッサン・アリ・ラディと会う幸運を得た。ゲノンは、1938年にこのシャイフが死ぬまで、彼と共にいた。同じ頃、ゲノンは別のスーフィー、シャイフ・モハンマド・イブラヒムに出会い、彼の娘と1934年に結婚した。この結婚で4人の子供が生まれた。末の子(アブデル・ワヘド)は1951年に生まれている。エジプトでの長い滞在の間、ルネ・ゲノンは禁欲的でシンプルな生活を送り、著述と霊的発展にいそしんだ。1949年、彼はエジプトの市民権を得た。
 彼の友人や協力者に請われて、彼が若い自分パリで遭遇した他のロッジが信じているような非正統的なものの付加を排除した、「伝統的」諸観念の上に築かれた新たなメーソンロッジをフランスに設立することに、ゲノンは同意した。このロッジは「ラ・グランド・トリアード」と呼ばれた。ゲノンの著作の一つにインスパイアされた名である。しかしながら、ロッジの最初の設立者たちは、設立後数年で離脱した。とはいえ、このロッジは、フランスのグランド・ロッジに属し、現在でも活動している。
 ルネ・ゲノンは1951年1月7日に亡くなった。記録によれば、最後の言葉は「アラー(神よ)」だった。


Wikipedia(English):Rene Guenon
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