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フリッチョフ・シュオン

2019/12/31 19:30
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フリッチョフ・シュオン
(1907/6/18−1998/5/5)

 形而上学者、比較宗教学者。スイス、バーゼル生まれ。父の死後、フランスに移り住む。1932年アルジェリアに訪問、アフマド・アル・アラウィーのスーフィー(イスラーム神秘主義)教団に入門。のち、自ら「タリカー・マリアーム」(アラビア語で「マリアの道」)という名の教団を立ち上げ、多くの弟子を育てる。第二次世界大戦中スイスに戻り国籍を取得、40年間住むことになる。その間常に、東洋西洋問わず、著名な宗教学者や思想家の訪問を受けていた。1949年ドイツ系スイス人の女性と結婚。第二次大戦後、夫婦でアメリカに旅行、ネイティヴ・アメリカン(インディアン)と交流を深め、部族の一員として受け入れられた(ムスリム(イスラム教徒)としては歴史上初)。ネイティヴ・アメリカンをモチーフにして多数の絵画を描いた。のち、アメリカに移住し、その地で1998年歿す。
 フリッチョフ・シュオンは、哲学、霊性、宗教の権威、永遠宗教(Religio Perennis)の解説者、永遠学派(Perennialist School)の主要な代表者の一人と理解されている。彼は公式にはアカデミックな世界に加入したことがないが、彼の著述は学門的、哲学的学術誌において、比較宗教学や霊性の学者たちに注目されてきた。現代のアカデミックな世界の相対主義への批判は、彼の教説の主要な側面のひとつである。その教説においてシュオンは、絶対原理、神への信仰を表明している。神とは、宇宙を支配し、死後私たちの魂が帰還する者である。シュオンにとって、偉大な啓示は、この絶対原理である神と人間とを結ぶものである。彼の大部分の著作はフランス語で書かれている。晩年、彼は詩集を母語であるドイツ語で編んだ。彼のフランス語の論文は約二十冊ほどにまとめられ、後に英語や他の諸言語に訳されている。

著作:『諸宗教の超越的一致』(1948)、『心眼』(1950)、『精神的諸観点と人間的事実』(1953)、『真智』(1957)、『カーストと人種』(1957)『智慧の階梯』(1958)、『イスラームの理解』(1961)、『古代世界へのまなざし』(1968)、『論理と超越』(1970)、『宗教の形式と実質』(1975)、『原理及び道としての秘教』(1978)、『スーフィズム』(1980)、『キリスト教とイスラーム、その内的一致』(1981)、『神から人へ』(1981)、『形而上学概観』(1985)、『中心を持つ』(1988)、『自己の言語』(1990)、『仮面の遊戯』(1992)、『人間の変容』(1995)

「人は祈る。祈りが人となる」(フリッチョフ・シュオン)
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中村廣治郎氏のマーヤー理解は間違いである

2013/05/19 18:03
中村廣治郎氏のマーヤー理解は間違いである

金田一輝

 イスラム学者である中村廣治郎氏(以下「中村氏」)は最近になって、フリッチョフ・シュオンに言及しはじめている。
 シュオンは、永遠主義(伝統主義とも言われる)の創始者の一人であり、公式にアカデミックな世界に属したことはないが、比較宗教学に関する雑誌などに多数の論考を発表し、宗教に関する世界中の少なからぬ識者に注目されてきた。
 日本においてはいまだほぼ無名のシュオンの思想を紹介している数少ない日本人学者が中村氏であり、その点で敬意に値するし、今後の展開に期待もしている。しかし、中村氏のシュオン理解には疑問点がなくはない。
 ここでは、その内の一点に絞って簡単に指摘しておきたい。それはシュオンの使用する「マーヤー」という用語についてである。「マーヤー」はインド哲学、特にヴェーダンタ学派に現れる概念であり、「幻影」とも「外観」とも訳されるが、シュオン他、永遠主義者らが好んで使用する用語でもある。
 中村氏は、井筒俊彦氏と対比する形でシュオンの「マーヤー」について触れている
(以下、引用は宗教研究 83(4), 1422-1423, 2010-03-30
http://ci.nii.ac.jp/els/110007580360.pdf?id=ART0009404801&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1368946634&cp= より)。

「シュオンは、この現象的存在の根元にある不可知のものをthe Absolute, Beyond-Beingなどと呼ぶが、それはそのままの形で存在するのではなく、常に一定の順序の下に自己を外化顕現し、現象世界に至る。このことは諸宗教に共通するもので、これをesoterismと呼ぶ。諸宗教の違いはただ絶対者が自己を分節化していくその象徴的形式だけである。この形式的側面をシュオンはexoterism、ないしはupayaと呼び、また人間はこの形式を絶対者の顕現としてではなく、実在そのものと見誤ってしまうことからmayaとも呼んでいる。」
「井筒の「東洋哲学」も基本的には同様で、(…)シュオンも、不二一元論におけるアートマンとしての人間の主観的側面についても議論してはいるが、井筒の特徴は、そのようなリアリティの展開を人間意識の認識論的変化に明確に対応させて論じていることである。(…)それを井筒は次のように図式化する:「分節(一)→無分節→分節(二)」。彼は、絶対無分節の境位を経たあとの「分節(二)」には、全存在の無分節的一体性の意識が残っているとして(禅でいう「無分別の分別」、スーフィーのいう「バカー」)、シュオンがmayaとしてそれを否定的にみるのに対して、積極的に評価する。」
(中村廣治郎「フリッチョフ・シュオンと井筒俊彦」)
※太字強調は引用者による。

 ここで中村氏は、井筒氏と対比させる形で、シュオンがマーヤーを否定的にのみとらえているかのように記述している。問題はここである。というのも、シュオンはたしかにマーヤーの否定的側面についても述べているが、その肯定的側面についても同時に述べているからだ。シュオンの著作からいくつか抜粋してみよう。

「マーヤーは「神の技芸」として同時に光でもあり闇でもある。それはアートマーの秘密を顕す限りで光であり、アートマーを隠す限りで闇である。」
(『霊的諸観点と人間的事実』)

「マーヤーは単に「宇宙的幻」であるだけではなく、「神的遊戯」でもある。それは神の偉大なる顕現であり、スーフィーの言葉で言えば、神の内での神による「神のヴェールを取る」ことである。」
(『古代世界へのまなざし』)

「マーヤーという語は「生産力」と「宇宙的幻」の意味を結合している。それは、顕現、展開、結合、反響の無尽蔵の戯れである。アートマーはそれ自体この戯れに覆われている。常に更新され決して同じものではない泡のマントに覆われた海のように。」
(『論理と超越』)

「どのようなイメージであれ、開示ないし展開は存在の投射であり、すべての実質の顕現である。閉鎖は本質の内への再統合であり、潜在的多様性への回帰である。マーヤーという戯れは本質と存在の間のダンスである。存在はヴェールであり、本質は裸体である。」
(『原理と方法としてのエソテリスム』)

「聖なる完全性の顕現は、この完全性それ自体の無限性から来ている。拡張的でもあり制限的でもあるこの次元は、マーヤーないしアル・ヒジャーブ、同時に顕現でも分離でもあるヴェールにほかならない」
(『キリスト教とイスラーム』)

「不二一元論者が示唆するように、マーヤーは単に「幻影」であるだけでなく、絶対的真実に内在する善の必然的付随物である。言い換えれば、実体が善であるなら、それはマーヤーを放射せざるをえない。神が善ならば、神は世界を創造せざるをえない。」
(『宗教の形式と実質』)

 このようなマーヤーの否定的であると同時に肯定的であるという両義性は、シュオンの著作に頻出するテーマであり、シュオンの著作に慣れ親しんでいる者にとっては周知のことである。まさか中村氏が一次文献を読まずに二次文献のみを頼りにシュオンについて書いているとは考えられないが、より深くシュオンの著作を読み込んだ論考を今後期待したい。

(ITSUKI KANEDA, Maya is not also negative, but also positive, 2013)

参考文献:
Frithjof Schuon,
Christianity/Islam, World Wisdom, 2008
Esoterism as Principle and as Way, Perennial Books, 1981
Form and Substance in the Religions, World Wisdom, 2002
Light on the Ancient Worlds, World Wisdom, 2006
Logic and Transcendence, World Wisdom, 2009
Spiritual Perspectives and Human Facts, World Wisdom, 2007
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フリッチョフ・シュオン「真理と現前」(2)

2011/04/10 19:56
 もしキリストがキリスト教徒にとって現前の真理、つまり、真の現前、唯一の神の真の現前であるならば、反対にムスリムにとって預言者は真理の現前であり、彼のみが純粋で全的な真理、真理そのものを現すことになる。これが、他の言説に目を向けないムスリムにとって、ムハンマドが「諸々の使徒」の中で最も偉大なものである理由である。「この真理、この預言者」とムスリムは主張しているようなものである。その一方、キリスト教徒にとって、反対に真理はまったく神―人の無比性に依存している。
 ムスリムにとって、絶対者の真理のみが救う。それゆえ、その全ての面で、キリスト教における現前の要素を減じたり低下させたりする傾向がある。他方、キリスト教徒にとって、現前のみ――ないしこの現前――が救いの効果を伝える。そこには、「プラトニズム」の形態、言いかえれば、自由化する真理に基づく観点のどれをも過小評価したり拒否したりする傾向がある。
 イスラームにおけるムハンマドの卓越性――これまで示唆してきた、少なくともその最も根本的な関連における論理的動機――は結果的ないし付随的に、偶然的にであり、イスラームによる彼らへの崇敬にもかかわらず、ムハンマド以前の使徒達の過小評価という奇妙な傾向をもたらしている。この特徴をここで言わなければならなく感じるのは、スーフィーの作品や(註4)、クルアーンの註釈にそれが現れ、その痕跡はいくつかのハディースにさえ見出されるからである。(註5)西洋アラビストの側の速過ぎる憤慨に機先を制するには、宗教とは仏教の用語で言うウパーヤ(註6)であること、この理由により、客観的には不適切でも、にもかかわらず、その効果によって宗教が役立ち、正当化される宗教的格言にとっては論理的に適切であること、これらを思い起こすべきである。
 他の観点から、キリストや聖処女への残念な意見に関して、一方で、他の宗教的観点から自身を守るというすべての公共の必要性――そこでは、人間の集団性は彼らがそれであるところのものであるので、目的が手段を正当化する――を、他方で、キリスト教の神人同型説に関するイスラームの側での拒絶を考慮に入れなければならない。卓越的被造物に与えられた「神の母」という称号のような表現は形而上学的な護教的省略なのであるという主張を成すことができる。しかし、公共的領域上で、その大胆さや軽さのために犠牲にされる微妙な註釈が不在である中で、この表現は絶対者のすべての形而上学を停止し、私たちの、神の絶対性の直接的で完全で、効果的な気づきの弱点を示す。というのも、現象も神である――これは矛盾である――この場合、神は母を持たない、そうでない場合は、神は母を持つが、この場合はそれは神ではありえない、少なくとも、それが母を持ち、仮説の当初の矛盾を捨て去る限りで。この仕方で絶対者を低める――ムスリムが言うように――としても、相対的なものを低めるならば憤慨する必要はない。絶対者とその栄光のためにのみそうしているのだから。(註8)
 ムスリムは、キリストの処女降誕から不適切な神学的結論を引き出していると非難されない。しかしながらムスリムは、唯一の救い主の歴史的降誕以前は「地獄」にいるものとして、エノク、モーゼ、エリヤの昇天はキリスト教徒にとって意味がないと言い返すかも知れない。もし人が、ムスリムは真理という要素――この場合、現前という要素にある危険と思われる面に有利なものとして超越を強調する――の名において極端な神学的証明書を手にしているという意見に属するならば、同じ理由で、キリスト教徒は現前の要素を好み、超越の形而上学的結果を犠牲にする多くの自由があり、このゆえに、真理の要素を軽視する。好むと好まざると、一般的な仕方で、ウパーヤは、一見法外に見えるが、最終的には人間の本性の事実によって説明され、正当化できる権利を持つ。
 一言で言えば、キリスト教徒とムスリムの間(註9)の誤解は基本的にここにある。キリスト教徒にとって秘蹟が真理として役立つ。その一方、ムスリムにとって真理が秘蹟として役立つ。

註4・イブン・アラビーの『フスス・アル―ヒカム』はこの独自の例の幾つかを提供している。
註5・おそらく正統的ではないが、どういう場合にしろ広まっており、内容に関しては否定されていない。
註6・ウパーヤとは天が魂を勝ち取ろうとする「効果的手段」である。魂は幻想であるから、「手段」も必然的に幻想的なものとなる。そこから教理、手段、宗教、あるいはむしろそれらの様々な面の非整合性がある。
註7・この矛盾はもちろん、文字通りの意味のみを含意し、その底にある神秘は含まない。しかしながら、公教にとって、文字通りの意味が重要である。
註8・イスラームの伝統によれば、太陽と月は、人によって崇拝されたために、時の終わりにおいて地獄へ投げ捨てられる。そのような意見は、ヒンドゥー教の観点とすべての他のの神話的ないし、彼らの側で、私たちが様々な機会に現象の形而上学的透過性と呼ぶものに基礎付けられた「異教の」観点の反対の所にある。しかしながら、この原理は主観的には多くの者に歪んだ応用を惹起するということは知られねばならない。――私はここで逸脱であり単なる乱用ではない偶像崇拝を念頭に置いているのではなく――例えば、神人同型的有神論が、聖職者的完成を可能にするすべての自力的衒学と結びつくマハラージたちの擬似儀式的神化の領域における。イスラームの偶像破壊的反応は、すべての相貌において偶像崇拝に向かう。同じコインの片面として、内在が超越と競合するところではどこでも、内在に対する超越の名が持ち上がる。エソテリスムのみが、この限定する傾向を原理的に避けうる。
註9・ないし、必然的に留保あるいはニュアンスつきではあるが、キリスト教徒とプラトニスト達の間。

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「真理と現前」(1)

2011/03/27 17:22
 絶対者の救いの顕現は真理でも現前でもある。しかし、それは排他的な仕方であれかこれかなのではない。真理としてそれは現前を含み、現前としてそれは真理を含むからだ。そういうものがすべての神現というものの二重の本質である。それゆえキリストは本質的に神の現前の顕現であるが、しかし彼はそのことによって真理でもある。「私は道であり、真理であり、命である」。絶対者がアプリオリに現前ないし真理であるならば、絶対者の顕現を通して以外に、誰も絶対者の救いの近さに入ることはできない。
 キリスト教においては、現前の要素が真理の要素に先行する。第一の要素が、いわば、真理がキリストという現象と同一視されるという意味で、第二を吸収する。キリスト教の真理とはキリストが神であるということである。ここから三位一体という教理が生じるが、これは、キリスト教の出発点が真理の要素、すなわち、絶対者の教理であるならば意味を成さない。後者は、神は自身を一なる現実として最高の仕方、あるいはセム族の公教によって許される尺度において表すイスラームの場合である。(註1)
 したがってイスラームは救うのは絶対的真理であるという公理に基礎付けられている。もちろん同時にその結果としてその意志にもあてはまる。この見方の公教的限界は、真理のみが救うのであり、現前はそうではないという公理である。反対にキリスト教は、神の現前が救うという公理に基礎付けられる。ここでの秘教的限界は、一方でこの現前のみが救うのであって他のものではなく、他方で、現前のみが救うのであり、真理という要素そのものが救うのではないという公理である。(註2)
 イスラームとともに救うのは真理である――それは絶対者の真理なのだから――と言うことは、真理の結果すべてが引き出されねばならないということ、それは全体として、すなわち、意志と感情と、同様に知性によって受け入れられねばならないということを意味する。キリスト教とともに救うのは現前である――それは神の愛の現前だから――と言うことは、人が、秘蹟的に供犠的に現前の型に入っていくこと――己を神の愛に捧げることを意味する。必然的に、まず愛し、次に意志し、最後に知る――神の愛に関連して知る。対してイスラームでは、人は最初に知らねばならない、その次に意志し、最後に愛さねばならない――そういう図式がこういう問題を表すのに許されるならばだが、神の知に関連して愛する。

 アプリオリに、あるいは公教的には、キリスト教の真理の要素は、既に述べたように、キリストが神であり、キリストのみが神であるという公理である。しかし、アポステオリに、あるいは秘教的には、キリスト教の真理は、一方で絶対者のすべての顕現は絶対者と同一であり、他方で、この顕現が同時に超越的且つ内在的であるということを意味する。キリストが私たちの上にあることで超越的であり、キリストが私たちの中にあるということで内在的である。知であり愛であるものは真心である。真心に入ることはキリストに入ることであり、逆も同様である。智が小宇宙のキリストであると同様にキリストは小宇宙の真心である。「神が人になったのは人が神になるためであった」。真我が真心となったのは真心が真我となるためであった。これが「神の国はあなた方の中にある」という理由である。
 この真智の中で、イスラームとキリスト教は出会う。なぜなら、かりに強調点を智の活動的霊感的機能に置くならば、真心は内在的なクルアーンないし内在的預言者だからである。これをまとめると、イスラームにおいて、現前の要素は、一方ではクルアーンに、他方では預言者によって表現されると言える。この現前の要素に全ての価値を付与すること――イスラームにおける出発点である真理の要素に関連して――は、秘蹟的にユーカリスト的にクルアーンと一体になることであり(註3)、フィトラ、「根源的規範」以外の何物でもないムハンマドという型に入ることで預言者と一体になることである。人は、預言者によって規定され、預言者によって人格化された、守るべきルールの体系、スンナに自らを閉じ込めることでこの型に入る。さてこれらのルールは「水平的」であるとともに「垂直的」でもある。それらは物質的で社会的であると同時に霊的生活にも関係する。
 クルアーンそれ自体も、真理であり現前である。その教理によって、真理は絶対者以外の何物も存在しないこと、神現的秘蹟的性質によって、現前が心髄の祈り、ディクルの源であるということを教える。


註1・この限定が意味するのは、まさに祈祷的主意的観点によって、神学的観点がある主の二元論を避けることができないということである。
註2・イスラームの救いの真理は「真理そのもの」――かくかくの真理ではない――というのもそれは絶対者にかかわり現象にはかかわらないからである。
註3・クルアーンの朗誦に生涯を捧げるムスリムがいる。また、それを理解してさえいなくとも、クルアーンを唱える非アラブ系のムスリムがいる。

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「祈りの次元」(2)

2010/08/17 20:04
 祈りの他の次元は、一方で人間は死すべき存在であり、他方で不死の魂を有するという事実から生じる。人は死を通らねばならない。そして結局の所、神の御手にある永遠に関わらなければならない。
 人間の根元的な能力とは、形而上学的知識を得ることのできる智性である。結果として、この能力が、瞑想に伴う祈りの次元を規定する。その主題は、まずもって至高原理の絶対的現実であり、そして、それを顕す世界の非現実――あるいは、相対的現実――である。
 しかしながら、人間はその本性を超える意図を持つ必要はない。彼が形而上学者でないのなら、一つであるよう義務付けられていると信じる必要はない。神は賢者を愛するのと同様に子供たちを愛する。神は、子供にとどまるすべを心得ている子供の真摯さを愛する。
 これは、祈りにおいて、すべての人間に課せられている次元があることを意味する。なぜなら、この局面において、問題なのは、人間の大きさ小ささではなく、神の前で真摯にあることだからである。一方で、人間は常に神の前では小さい存在である。他方で、彼が神と対話する時、常に人間には偉大さがある。結局の所、すべての質と徳は至高の善に属する。

 私たちは、原理の絶対的現実、それゆえ、相応して、それを顕す世界の非現実――あるいはより小さい現実――を内容として持つ瞑想的祈りの次元があると言った。
 しかし、「ブラフマは現実、世界は幻想」と知るだけでは十分ではない。「魂はブラフマと異なるものではない」ということも知る必要がある。この第二の真理が私たちに次のことを想起させる。私たちの本性が許す限りにおいて、私たちは、知的なだけでなく、存在的なものとして至高の原理に向かうことができるということを。これは、私たちは単に客観的知識を得ることのできる智性だけでなく、原理上、主観的一致の可能な「私」という意識を所有するという事実から生じる。一方で、エゴは内在的聖性から切り離されている。なぜならそれは顕現であって原理ではないからだ。他方で、原理が自らを顕す限りにおいて、エゴは原理と異なるものではない。ちょうど、鏡の中の太陽の反射は太陽ではないが、にもかかわらず、その反射が太陽光線であり、他の何物でもない限りにおいて、「それと異ならない」ようなものである。
 このことに気づけば、人間は、超越的であると同時に内在的である神の前に立つことを止めることはできない。私たちの瞑想的意識の範囲、霊的運命の神秘を決定するのは、神であって、私たちではない。しかし、私たちは、神が私たちにおいてこの聖なる自己意識をどの程度実現しようとしているかを知ることはできない。それを私たちが知るか知らないかは重要性を持たない。私たちは私たちがそれであるところのものであり、全ては、摂理の下にある。

(おわり)


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フリッチョフ・シュオン「祈りの次元」(1)

2010/08/16 18:05
 人は、自らの全てをもって神に見えなければならない。なぜなら、神はすべての存在であるからだ。これが、「すべての力でもって」神を愛せ、という聖書の命令の意味である。
 さて、事実としての人間を性格づける次元の一つは、彼が外界に向かって生きているということ、そして加えて、彼が快楽に向かっているということである。これが彼の外面性であり、彼の色欲である。彼は、神の前でそれらを否認しなければならない。神は私たちのなかに現れ、第二に、人は彼自身の中、感覚現象とは独立に快楽を発見することができるのでなかればならない。
 神に人を近づける全てのものは、まさにこの理由によって、神の至福を共有している。祈りによって、魂のイメージや雑音を超えることは、聖なる空虚と無限を通じた自由である。それは静穏の座だ。
 外的な現象は、その高貴と象徴による天界の元型への参与により、内的な徳を持ちうる。すべてのものは、その時節に従って善でありうる。にもかかわらず、離脱は実現されねばならない。さもなければ、人は、外面性を正当なものとする権利を持たないし、魂にとって死をもたらす誘惑的な外部性や情欲に陥ることになろう。創造主が、その超越によって、創造から独立しているように、人間は、神の観点から世を離れてなければならない。これが人の能力である自由意志である。人間のみが、自身の本能や欲望に抵抗することができる。Vacare Deo.

 人間の他の能力は、理性ある思考と会話である。結果として、この次元は、神との邂逅を通じて実現されなければならない。それが祈りである。人は悪を避けることだけで救われるのではなく、彼はまた、とりわけ、善を成し遂げることによって救われる。最も良い働きとは、神をその対象とし、私たちの魂をその作用者とすることである。これが「神の想起」である。
 祈りの本質は信仰であり、それゆえ、確信である。人はそれをまさに話すことで、表す。あるいは、至高の善への訴えであり、申し入れである。祈り、ないし祈願は、神、そして霊的使命の確信と等しい。
 行動は、その意図に従って正当である。祈りにおいて、いかなる野心に犯された意図があってはならないのは明らかである。それは、天の怒りをまねくすべてのこの世の虚しさを逃れてなければならない。
 真心を込めた祈りは、それを実現する者にだけ有益なのではない。それは彼の周囲に広がり、この観点からいえば、慈愛の行為なのである。

 人はみな幸福を求めている。これは、他の人間の本性の次元である。神の外には完全な幸福はない。この世の幸福はすべて、天の祝福を必要とする。祈りは、純粋な至福である神の現前へと私たちを招く。もし私たちがこのことに気づいているなら、そこに平和を覚えるだろう。聖なるものの感覚を持ち、それゆえ、この神秘に魂を開くものは幸いなるかな。

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「十字架」(2)

2010/08/08 19:19
 「あなたがたの内罪を持たない者のみが、まず彼に石を投げよ」。私たちはすべて同じ罪深き実体であり、このはれ物である悪に感染しやすい物質で作られている。その結果、私たちは、疑いなく間接的ではあるが現実的な仕方で、悪に参与している。あたかもすべての人が自らすべての罪を部分的に背負っているかのようである。この場合、罪は宇宙的偶然として現れる。正確に大きな尺度におけるエゴのように。厳密に言えば、エゴのない人は罪がない。その人は、そのことによって、あたかも風のようである。誰も「どこから来てどこから来るのか言え」ない。もし神のみが罰を与える権利を持つなら、それは神がエゴを超えているからである。憎しみとは、神の座に自らを置く傲慢、人間共通の悲惨を分有していることの忘却、私たちのものである「我」に何か絶対的なものを宛てること、を意味する。彼は、多くの反動やもつれによって成る人間の実質から、「我」を区別しているのだ。人間が、「我」の上に立つ、もしくは立ちうるかぎりにおいて、神が時折罰する権利を与えることがあるというのは真実である。しかし、神の道具となるということは、人を憎しむということではない。憎しみにおいて、人は「原罪」を忘れ、そのことによって、ある意味で、人の罪を自ら負う。それが、愛すべき私たちの敵を憎む時でさえ、私たちは自らを神とする理由である。他人を憎むということは、神のみが完全であり、神のみが裁き手であるのを忘却することである。健全な論理として、人は「神の内で」そして「神のために」のみ憎むことができる。私たちは「不死の魂」ではなく、エゴを憎まなければならない。他のなにものでもない神を憎む人をその限りで憎まなければならない。まとめると、私たちは神への憎しみを憎むべきであり、その魂を憎むべきではない。

  「十字架を負う」とは、実存的十字架に自身を結びつけることである。存在の領域には、「罪」の極と「十字架」の極がある。快楽に投げ出された盲目と、停止する良心、「広き道」と「狭き道」。「十字架を負う」とは、本質的に「潮流を泳ぐ」ことではない。それは「諸霊を見分ける」ことであり、見かけ上無である真理の中で堕落せぬことである。「十字架を負う」とは、それゆえ、この無、この神への戸口に耐えることである。世界はうぬぼれであり、エゴイズムであり、熱情であり、間違った知であるので、「十字架を負う」とは、謙遜、慈愛、「死ぬ」こと、「小さな子供のように」なることである。この無は、私たちがうぬぼれている限りにおいて、苦しみである。無は私たちを苦しめる。煉獄の火は無に他ならない。それは燃え上がる私たちの実体である。神が私たちを憎むことを望むゆえにではなく、それが存在のレベルに応じてそうであるところのものであるから――それが「この世のもの」だからである。

 十字架は聖なる裂け目であり、それを通って無限から慈愛が流れ込む。二つの次元が交差する十字架の中心は、見捨てることの神秘である。それは、魂が自らを失う時、「もはやない」「いまだない」、「霊的瞬間」である。キリストの受難全体のように、この叫びは、人がそこにおいて放棄によって共有せねばならない悲しみの神秘であるだけでなく、反対に、神のみがもたらしうる「はじまり」である。彼が神であるから、彼はそれをもたらす。これが、「私のくびきは負いやすい、私のくびきは軽い」の意味である。人間にゆだねられた勝利は、すべにイエスによって勝ち取られた。人間にとって、この勝利に自らを開くこと、それゆえ、自ら自身になることのみ残されている。

 論理学者の場合の「抽象」は、肉と成った言葉の場合は、あたかも具体である。ロンギヌスの槍は単にキリストの脇腹を刺しただけだ。槍を流れ落ちる聖なる血の一滴は人の手に触れる。その瞬間、彼にとって、世界はガラスの家のように崩壊する。存在の闇は引き裂かれる。彼の魂は、滴る傷のようになる。彼はあたかも酔っているかのようであるが、その酔いは冷めており純粋なものだ。彼の生の全体は、それゆえ、十字架の下での一瞬を千回繰り返す反響のようである。彼は単に生まれ変わったのだ。真理を彼が「理解」したからではなく、真理が彼を実存的につかまえ、「具体的」な仕方で、彼をこの世から引き裂いたからである。肉となった言葉は、ある仕方で物体となった真理である。しかし同時に、変容し、新しく創り出された物体、燃える、変容する、放出する光としての物体である。

(おわり)


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フリッチョフ・シュオン「十字架」(1)

2010/07/24 20:09
 もし受肉が神の「下降」を意味するとすれば、キリストは創造の全体と等価であり、ある仕方でそれを包含する。彼は第二の創造であり、第一のそれを浄化し、贖う。彼は十字架によって、存在の悪を引き受ける。この悪を引き受けることができるために、必然的に神は存在となる。創造は、必然的に神からの分離であるがゆえに、十字架はどこにでもある。存在は自らを肯定し、喜びを通して開花する。しかし、喜びは、神をその目的とするのでない限り、罪となる。すべての喜びは、その存在の本質によって神へと向けられている事実において、形而上学的な口実を含むとはいえ。すべての罪は十字架の下で打ち砕かれる。しかし、人は盲目の欲望のみによって成るわけではない。彼は、神を知るという智を享受している。人はすべてにおいて聖なる目的に気づき、同時に「十字架を負い」「もう一つの頬を差し出す」のでなくてはならない。つまり、存在の牢獄の内的論理さえ超えなければならない。その論理は、この世の目には「愚かさ」であるが、この牢獄の世界を超えなければならない。それは「垂直的」すなわち「天上的」でなくてはならない。「水平的」すなわち「地上的」ではなく。
 存在者もしくは「顕現」は二つの側面を持つ。木と十字架。蛇が巻きつく喜びの木、肉と成った言葉の架かる十字架。不敬虔な者にとって、存在は「肉に従った」哲学によって人が正当化した情熱の世界である。選ばれた者にとって、それは恵み、信仰、真智に貫かれた試練の世界である。
 イエスは単に新たなアダムなのではなく、新たな創造でもある。古き者は全体性と周縁である。新しき者は、一性と中心である。

 私たちは十字架を免れえない、存在を免れえないように。存在する全てのものの根底に、十字架がある。自我とは神から離れる下向きの道である。十字架はこの道の中断だ。もし存在が「神の何か」なら、それはまた「神でない何か」でもある。これこそ自我が体現するものだ。十字架は後者を前者に引き戻し、そうすることで私たちに存在の滅却を可能にする。
 存在の問題を複雑にしているものは、神がすべての場において顕現するからである。というのも、神の外には何物も存在できないから。すべての客体は、神聖なるもののこの離れた認識から分離されたことは決してなかった。これこそ、十字架の影において喜びが把握され、避けえないものでさえあることの理由である。存在することは喜びである、たとえ十字架の下でも。ここが、人間が自らを保つべきところである、なぜなら、それこそ深いものの道理であるから。苦難と死は宇宙的肉体に再現した十字架にほかならない。存在は、十字架に印づけられた薔薇である。

 社会道徳はある人間の正しさと、他の人間の間違いを区別する。しかし、キリストの神秘的道徳は、厳密に言って、誰にも正しさを認めない。むしろ彼らを、誰も正しくない地平へと置く。というのは、すべての人間が罪人であり、「神以外に善き者はいない」から(原注1)。モーセの律法には社会に害をを成した人、たとえば姦通者への石打刑がある。キリストにとって、害を成しうるのは、一切の復讐とは無縁の神に対してのみである。全ての人は永遠の者の前では有罪である。すべての罪は、アダムとイヴの罪であり、すべての人間はアダムもしくはイヴである(原注2)。最初の正義の行為は、それゆえ、隣人を許すこととなる。「他人」の罪は、私たち自身の足元にある。隠れた罪が顕わになることが、私たちに共通する実態を構成する。
 しかし、キリスト、彼の王国は「この世のものではない」が、それが避けえない限りにおいて、人間の正義の扉を開く余地を残している。「それゆえ、カエサルのものはカエサルに」。すべての地平においてこの正義を否定することは、結局不正義に終わるだろう。そうであっても、悪をその全体的な根拠、その必然的にあるしかない罪の次元に引き戻すことで結局の所、私たち自身の、すべての自我の本性にそれを見て取ることによって、憎しみを克服することは必然的なことである。自我とは、光線からの断片を成す光学的幻影であり、それが「私たち自身」もしくは「他人」の問題であるかどうかによって逆にもなる。真理を通して、全てを理解し、「全てを許す」寛容さを見出し、すべてを公平な場へと還元することは、必然的である。悪を超え、それゆえその反対物のない平和によって悪を滅することは必然的である。真の平和は、その反対物を持たない。

(原注1)「というのも私自身では何も知ることはない。これによって私が正当化されるわけではない。私を裁く者は主である」(第1コリント書4:4)
(原注2)聖大グレゴリウスの書簡――ベーデ候による「英国国教会史」に引用されている――はこう書いている、「すべての罪は三つの原因からなる。すなわち、誘い、喜び、そして同意。誘いは悪魔から、喜びは肉体から、同意は意志から来る。蛇が最初の罪をさそった。そして肉であるイヴが、肉体的喜びをそこに見出し、心であるアダムがそれに同意する。しかし、最も繊細な智のみ、誘いと喜び、喜びと同意を区別することが出来る」

(つづく)


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フリッチョフ・シュオン「啓示の多様性」(2)

2010/07/24 10:41
この二つ、一性と多様性は共に、それ自身を顕すことができなければならない。しかし、二つの顕現は必然的に相対的なものであり、一方が他方を制限する。ここから結果として、一方で多様性は一性を廃止することはできず、一性もしくは唯一性はそれ自身の存在の領野において多様性と矛盾する。いいかえれば、唯一性のすべての顕現において、それを補完する多様性が維持されねばならず、事実、独特の事実は部分においてのみ生じるのであり、宇宙全体においてではない。一定の事実は、その事実が存在することにおいてではなく、一定の環境にとって神を表現する限りにおいて独自のものである。しかしこの存在は、象徴を廃止するのではなく、同じ平面ではあるが、その独自の事実が生じる枠組の外でそれを繰り返す。聖なる言葉を伝える存在は、その神意の領域の内側において一定の啓示の唯一性を廃止しないが、この領域の外側で、神の言葉の顕現を繰り返す。それゆえ、多様性は、唯一性の形而上学的に必然的な顕現を廃止することはないが、特定の枠組の外では、それと矛盾し、その結果、創造されざる、非顕現の言葉のみが、絶対的唯一性を持つことを示すのである。
 もし、啓示が生じた瞬間、それは世界にとって独特であるのであり、単に世界の部分にとってではないという反論があるならば、こう答える。多様性は必ずしも同時に生じず、時間的に連続して拡張していくこともある、と。これは明らかに諸啓示の問題の場合である。その上、事実の唯一性と原理の唯一性を混同してはならない。私たちは一定の時期における、事実の唯一性の可能性を否定しない。しかし、絶対的な意味での事実の独自性は否定する。空間的に独自のものは時間的なそうではなく、逆もまた真である。しかし、これらの存在の諸条件それぞれに内でさえ、事実はその種の独自性だとは言えない――というのも、それは類もしくは質であり、問題となっている特殊性ではない――私たちは時間も空間も測り得ない、私たちを逃れる諸様態はなおさら。
 この全体の教義は、明白に次の例によって示される。太陽は私たちの太陽系において唯一である。しかし、空間的にそうなのではない。私たちは、私たちの太陽と同様に空間的に配された別の太陽を見ることができる。しかし、私たちはそれらを、私たちの太陽とは見なさない。私たちの太陽の唯一性は、星々の多様性によって裏切られるが、それによって、摂理の下にある私たちのものである太陽系内での有効性が失われるわけではない。それゆえ、唯一性は部分において顕されるのであり、部分がにもかかわらず私たちに示す全体においてではない。ゆえに、神の意志によって、それは全体性「である」。もちろん、私たちにとってのみ、その範囲はこれまた神の意志によるが、私たちの心が形態を超えていかない限りにおいてのみではあるが。しかし、この場合でさえ、その霊的効果に関する限り、部分は全体「である」。

 私たちは地上において、多様な人種の存在を見る。この多様性は「妥当」なものである。「真の」人種に対立する「偽の」人種などというものはないからだ。同様に私たちは多様な言語を見る。それらの正当性疑義をはさむ者などいない。同じことは科学と芸術においても真である。さて、この多様性が宗教の領域においては生じないとすれば、すなわち、人間の器の違いに応じて、聖性の項目――形式のそれであって、本質のそれではないが――の多様性が生じないとしたら、驚くべきことである。ちょうどそれぞれの人種の枠組の中で人間が単に「人間」であって、「白人」でも「黄色人」でもないように、それぞれの言語が、それ自身の空間では、ただの「言語」であり、様々な言語の中の一言語ではないように、それぞれの宗教も、いかなる相対化もなしに、達成されるべき目的の観点からは無意味だが、それ自身の平面においては必然的に「宗教」にほかならない。宗教を語ることは「唯一の宗教」を語ることなのである。明示的に一つの宗教を実践することは、暗示的にはそれらすべてを実践することなのだ。
 克服できない障害と衝突する考えや試みは事の本性に反している。人類の民族的多様性と地球の地理的広がりだけでも、すべての人にとってのただ一つの宗教という公理は、まったくありそうにない。むしろ反対に、――少なく見積もっても――宗教の多様性の必要性こそありえそうである。別の言い方をすれば、唯一の宗教という考えは、もし絶対性と普遍性を主張するならば、矛盾を免れない。一方で、その実現は心理的に物理的に不可能であり、他方で、いうまでもなく、そうした主張と、すべての宗教神話の必然的に相対的な性格との二律背反がある。純粋形而上学と純粋な祈りのみが絶対的であり、それゆえ普遍的である。「神話」に関しては、――真理の内在的内容とその効果は別にして――形而上学的、本質的な真理を、一定の人間集団の基礎とすることができるためには不可欠である。
 宗教は、「超自然的に自然な」事柄であり、その真理は――外的な証拠の観点からは――人間の普遍性によって証明される。その結果、宗教現象の多様性と偏在性は、宗教それ自体にとって有利な、力強い主張を構成する。植物が、間違うことなく光に向かうように、人間は誤りなく、啓示、それゆえ伝統に従う。動物の自然本能には、何か不可謬的なものがある。人間の「超自然的本能」もまたそうである。しかし、人間は自然それ自体に逆らうことができる唯一の「動物」である。間違ってそれを侵害するにせよ、それを超え行くにせよ。

(おわり)




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フリッチョフ・シュオン「啓示の多様性」(1)

2010/05/05 18:42
 唯一の真理があるのだから、唯一の啓示、唯一の伝統だけが可能であると結論せねばならないだろうか? これにはこう答える。まず、真理と啓示はまったく同等ではない語である。なぜなら真理は形を超えており、他方、啓示もしくは伝統は形から成り、形の世界に属するからである。定義上確かにそうなのだ。ところで形について語ることは、多様性、すなわち多数性について語ることである。形の存在と本性の根拠は、表現であり限定であり差異である。形の中に入るものはまた、数の世界、すなわち多様性の中にも入る。形式原理は――聖なる可能性の無限性に霊感を与えられて――この反復へ多様性を与える。たしかに、私たちの人間世界には唯一の啓示ないし伝統のみがあり、私たち人間によって知られない、あるいは知ることすらできない他の諸世界において多様性が実現していると考えることはできる。しかしこれは、真理の形の違いを決めるのは受け入れる人の器の違いであるという事実を理解しそこねている。何千年もの間、人類は、多かれ少なかれそれ自体で完結している多くの完全な人間性として形作られた、幾つかの根本的に多様な支流へと枝分かれしてきた。精神的な器の存在がこれほど違い、これほど独自であるということが、一つの真理の様々な屈折を要求している。これはつねに民族の問題というわけではなく、非常に多様ではあるが、にもかかわらず全体として彼らを十分に同質の精神的器とする心理的諸条件に従属している人間集団の問題であることを明記しておこう。この事実は、個人をその集団の枠組から飛び出すことを妨げないけれども。というのも、人間集団は決してこのことについて絶対的なものではないからである。そうであるならば、様々な諸啓示は決して相互に矛盾しない、なぜなら、それらは同じ器に適用されておらず、神は決して異なった性格を持つ二つ以上の器に同じメッセージを送らないからである。これはたとえれば、形式的に不一致である諸次元に対応している。矛盾は、同じレベルに置いたものの間でのみ生じる。諸伝統の見かけの諸対立は、言語や象徴の違いのようなものである。矛盾は人間の器の観点のことであり、神のそれではない。世界における多様性は、聖なる原理からの隔絶の結果である。創造神は、世界が存在すると同時に存在しないことを意志することはできない、ということなのだ。
 もし啓示が相互に相反するならば、これは必然的なことである。なぜなら神は、彼が語る際、絶対的な仕方でみずからを表現するからである。しかしこの絶対性は、形式よりも普遍的内容に関わる。相対的象徴的意味においてのみ内容は形式に適用される。形式は内容の象徴であり、まさにこの内容が宛てられている所の全体としての人間性の象徴でもある。学者がするように、神が多様な啓示を外部から比較することなどできない。神は、それぞれの啓示の唯一の中心として自らを保つ。啓示が絶対的な言葉で語るのは、神が絶対的だからであって、その形式が絶対的だからではない。言い換えれば、啓示の絶対性はそれ自体の絶対性であって、その形態の絶対性ではない。
 聖なる諸啓典の言語は聖なるものであるが、同時に必ず人間の言語である。人間のために作られたのであり、間接的な仕方でのみ聖なるものでありうる。神と私たちの表現手段との通約不能性は諸聖典に明らかであり、そこでは私たちの言語や論理はともに天の意図に適していない。不死ではない者の言語は、アプリオリに、永遠の相から物事を見ていない。創造されざるコトバは、創造された言葉を粉砕し、それを真理へと方向づける。この仕方で、それは人間の論理と関連して、その超越性を表す。言葉の聖なる意味に達したいならば、人はこの限界を克服せねばならない。そうすれば人は、純粋智の果実である形而上学的智において、また、ある仕方においては、本質的なものに接する際、愛において、これらを克服する。聖なる真理をこの世の真理の諸条件に還元しようとするのは、有限と無限の間にはいかなる共通の尺度もないということを忘れることである。
 啓示の絶対性はその一性を要求する。しかしそのような一性は、その種の一性である事実、つまり、それ自身において、全体的な類にまで達するものを構成する事実を実現するほどのレベルにおいては生み出されることはできない。どういうレベルで考えられようと、真実在のみが唯一である。神、普遍的実体、この実体に内在する聖霊。しかし、啓示のように、「相対的に一的な」事実がある。すべてが相対的なのであり、諸原理さえ例外を許す――少なくとも見かけ上――原理がつかの間のものの中に侵入する限りでは。それゆえ、一性は事実の領域においても生じ得なければならない。もし、一的事実がいかなる仕方でも存在しないのならば、多様性が絶対的なものとなるだろう。それは純粋単純に矛盾である。


(つづく)



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タイトル 日 時
フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(2)
 ユダヤ教について特徴的であるのは、それが選民とのパートナーとしての神に強調点を置いているところだ。両者をつなぐものが律法である。律法に強調点があると言ってもよい。神とイスラエルの間に据えられているので。イスラエルが神の民であるとすれば、神はイスラエルの神である。その契約はシナイの律法によって封印された。神とその民の間のドラマは、宇宙のリズムとすべてのものの絶対への還元という二重の観点から、そのすべての両義性と最終的な栄光とともに、アートマとマーヤーのドラマを反映している。  セム系宗教、また... ...続きを見る

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2010/04/25 19:13
フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(1)
 「永遠哲学」という語は、ルネッサンス以後に出現し、ネオ・スコラティシズムにおいてよく使われているが、根源的普遍的真理、それゆえ形而上学的原理の全体を意味する。それらの公理は何か特定のシステムに属していない。すべての宗教の本質を表す際、この語を「永遠宗教」と同じ意味で使うこともできる。これは全ての礼拝形態、全ての祈りの形式、そしてすべての道徳体系の本質を意味する。ちょうど、「永遠の智慧」が真智の全ての教義、全ての表現の本質であるのと同じことである。私たちは「哲学」より「智慧」という語を好む。後者... ...続きを見る

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2010/04/24 20:27
フリッチョフ・シュオンの思想(Wikipediaより)
フリッチョフ・シュオンの思想(Wikipediaより) 諸宗教の超越的一致 ...続きを見る

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2009/09/08 19:21
フリッチョフ・シュオンの生涯(Wikipediaより)
フリッチョフ・シュオンの生涯(Wikipediaより)  シュオンは、1907年6月18日、スイスのバーゼルで生まれた。彼の父は南ドイツ出身、母はアルザス系である。シュオンの父はヴァイオリニストであり、音楽のみならず、文学や霊性文化豊かな家庭であった。父の突然の死まで、シュオンはバーゼルで育ち、そこの学校に通っていた。父の死後、母は他の二人の息子を連れて、フランスのムルーズに戻り、シュオンはフランス国民となることを余儀なくされた。幼児期にドイツ語を習い、その後フランス語で教育を受けたことで、人生の初期に二つの言語を習得した。  若い時分から、シ... ...続きを見る

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2009/09/06 19:10
フリッチョフ・シュオンとは?(Wikipediaより)
フリッチョフ・シュオンとは?(Wikipediaより)    フリッチョフ・シュオン(1907/6/18−1998/5/5)は、スイスのバーゼル、ドイツ系の両親の下に生まれた生粋のスイス人である。彼は、哲学者、形而上学者、宗教と霊性に関する多くの著作の著者として知られている。  シュオンは、哲学、霊性、宗教の権威、永遠宗教(Religio Perennis)の解説者、永遠学派(Perennialist School)の主要な代表者の一人と理解されている。彼は公式にはアカデミックな世界に加入したことがないが、彼の著述は学門的、哲学的学術誌において、... ...続きを見る

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2009/09/05 18:37
フリッチョフ・シュオンの著作
アマゾンリスト 「フリッチョフ・シュオンの著作」 http://www.amazon.co.jp/gp/richpub/listmania/fullview/R3UPVFMA1JS5YA/ref=cm_lm_pthnk_view?ie=UTF8&lm%5Fbb= ...続きを見る

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2009/09/02 20:30

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