Logic and Metaphysics

アクセスカウンタ

zoom RSS ルネ・ゲノンの生涯(Wikipediaより)

<<   作成日時 : 2010/01/16 14:41   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 ルネ・ゲノンは、パリから160キロほど離れた中央フランスの一都市ブロワで生まれた。当時のほとんどのフランス人と同様、ローマ・カトリック教徒の家系である。彼の家族についてはあまり知られていないが、彼の父はおそらく建築家であった。1904年まで、ゲノンはパリで学生として過ごし、数学と哲学を集中的に学んだ。健康を害していたにもかかわらず、優秀な生徒であり、特に数学に秀でていた。
 パリの学生時代、ゲノンはこの都市のオカルト的雰囲気を見出し、参加するようになった。当時は、パピュスの影響が大きかった。「ト・パランジェヌ」という筆名で、定期刊行誌「ラ・グノース」の発行者兼主編集者となり、1922まで記事を書いていた。
フランスのオカルティストや擬似メーソン結社への没入していたゲノンだが、それらの多様でしばしばごたまぜの教義は「堅固な建造物」とは成り得ないと分かり、失望した。彼は『量の支配と時の徴』の中で、フランスのオカルト運動の知的空虚として見たものの指摘もしている。非常に重要なことには、一定の諸個人の疑わしい動機によってそれらは駄目になった、と彼は書いている。
 この時期の前後に(彼の伝記作家P・シャコルナックによって見出された諸徴候による)、ルネ・ゲノンはヒンドゥー教、特にシャンカラチャリヤの秘儀伝授の系統によるものと、道教を知るに至る。彼はまた、1911年には、イスラーム・エソテリスムであるスーフィズムの伝統の秘儀伝授を受けた。そこで彼は「シャイフ・アブド・アル・ワヒド・ヤヒヤ」という名を受けた。彼のスーフィズムへの参入は、イヴァン・アゲリ(アブドゥル・ハディ)の影響によるものであり、当時のエジプトにおけるエクソテリック、エソテリック両方における代表者であるシャイフ・アブデル・ラフマン・エリシュ・エル・ケビルによって行われた。シャイフ・アブデル・ラフマン・エリシュ・エル・ケビルは、カイロのアルアズハル大学のマドゥハブ学派(イスラーム法学派の主要な系列の一つ)の長であり、のちにゲノンは『十字架の象徴学』で彼への献辞を書いている。
 1917年ゲノンはアルジェリアのセティフに一年滞在し、大学生に哲学を教えた。第一次世界大戦の後、教えることをやめ、彼の最初の本であり1921年に出版された『ヒンドゥー教研究序説』の執筆にすべてのエネルギーをそそいだ。1925年からゲノンは、P・シャコルナック編集の雑誌『イシスのヴェール』の共同編集者になった。1935年以後、ゲノンの影響下、この雑誌は『伝統研究』として知られるようになった。
 ヨーロッパの聴衆に対するヒンドゥー教の解説は、当時の多くの東洋学者が各自ばらばらの仕方で試みられていたが、ゲノンの『ヒンドゥー教研究序説』はその主題を独自の洞察的やり方ですすめた。ゲノンが正確に定義した、最も普遍的意味における形而上学と伝統という概念、また、宗教、伝統、エクソテリスム、エソテリスム、神学などのような一見曖昧に見えない用語に必要な区別や定義を参照することによって、である。ゲノンの説明によれば、彼の目的はヒンドゥー教のすべての側面を記述することではなく、その精神のふさわしい理解のために必要な知的基礎を提供することである。この本はまた、一般にヒンドゥー教と伝統についての、他の幾人かのヨーロッパ人による著作を激しく非難している。ゲノンによれば、そのような作家は、彼らが主題とする問題やその意味の、深い理解に欠けている。この本は、、またブラヴァツキー夫人の神智学協会を通じての、ヒンドゥー教(およびインドそのもの)への大英帝国の政治的侵略についての批判的分析も含んでいる。
 1921年にはまた、ゲノンは『フランス哲学レビュー』に記事を寄稿しはじめた。それらはいくつかの補足とともに『神智学協会:ある擬似宗教の歴史』にまとめられた。1920年から1930年の十年間に、ゲノンはひろく公衆の名声を獲得しはじめ、彼の著作はパリの内外で多くの知識人や芸術家によって言及された。この時期に、彼によれば近代文明の特徴である東洋と西洋の「知的分化」を解説した本も出版された。『現代世界の危機』と『東洋と西洋』である。1927年には第二の教義的作品『ヴェーダンタによる人間とその生成』が、1929年には『霊的権威とこの世の権力』が出版された。『霊的権威とこの世の権力』では、ゲノンが「聖職者」(司祭的、聖的)と「王族」(政権的)の力の根本的区別として見たもの、並びに、後者による前者の力の簒奪の否定的結末の一般的説明をしている。これらの考察から、ゲノンは近代の逸脱の起源をさかのぼって、1314年のテンプル騎士団の崩壊に見出されるとしている。
 1930年、スーフィズムの文書を収集し翻訳する目的で、ゲノンはパリを去ってカイロを訪れる。この目論見は編集者の決定によって突然絶たれた。カイロにひとり残ったゲノンは、友人からすべての誘いを断り、フランスへは戻らなかった。日々乏しくなる経済状態にもかかわらず、世界中の多くの国々の同類と熱心に文通し、著作活動も続けた。エジプトに残ることで、ゲノンは、すでに強い親近感を表明していたスーフィズムと古代のエソテリスムという文化的環境にさらされていたが、彼のヨーロッパへの帰還の拒絶は、疑いなく彼にとって困難をもたらした。あたかもこの困難を代償にしてのように、ゲノンは、のちに自ら参入することになるハミディヤ・シャドゥヒリヤというスーフィー教団の長、シャイフ・サラマ・ハッサン・アリ・ラディと会う幸運を得た。ゲノンは、1938年にこのシャイフが死ぬまで、彼と共にいた。同じ頃、ゲノンは別のスーフィー、シャイフ・モハンマド・イブラヒムに出会い、彼の娘と1934年に結婚した。この結婚で4人の子供が生まれた。末の子(アブデル・ワヘド)は1951年に生まれている。エジプトでの長い滞在の間、ルネ・ゲノンは禁欲的でシンプルな生活を送り、著述と霊的発展にいそしんだ。1949年、彼はエジプトの市民権を得た。
 彼の友人や協力者に請われて、彼が若い自分パリで遭遇した他のロッジが信じているような非正統的なものの付加を排除した、「伝統的」諸観念の上に築かれた新たなメーソンロッジをフランスに設立することに、ゲノンは同意した。このロッジは「ラ・グランド・トリアード」と呼ばれた。ゲノンの著作の一つにインスパイアされた名である。しかしながら、ロッジの最初の設立者たちは、設立後数年で離脱した。とはいえ、このロッジは、フランスのグランド・ロッジに属し、現在でも活動している。
 ルネ・ゲノンは1951年1月7日に亡くなった。記録によれば、最後の言葉は「アラー(神よ)」だった。


Wikipedia(English):Rene Guenon

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
ルネ・ゲノンの生涯(Wikipediaより) Logic and Metaphysics /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる