Logic and Metaphysics

アクセスカウンタ

zoom RSS フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(1)

<<   作成日時 : 2010/04/24 20:27   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0

 「永遠哲学」という語は、ルネッサンス以後に出現し、ネオ・スコラティシズムにおいてよく使われているが、根源的普遍的真理、それゆえ形而上学的原理の全体を意味する。それらの公理は何か特定のシステムに属していない。すべての宗教の本質を表す際、この語を「永遠宗教」と同じ意味で使うこともできる。これは全ての礼拝形態、全ての祈りの形式、そしてすべての道徳体系の本質を意味する。ちょうど、「永遠の智慧」が真智の全ての教義、全ての表現の本質であるのと同じことである。私たちは「哲学」より「智慧」という語を好む。後者はより間接的であり、加えてそれは完全に世俗的で、しばしば常軌を逸した思想体系と連携する考えを喚起するからである。
 永遠の「智慧」にとっての鍵となるのは、純粋智、別の言い方でいえば、形而上学的識別である。識別とは区別すること。現実と幻想、絶対と相対、必然と可能、アートマとマーヤーの区別。補完的作用的な仕方で識別に伴うものが、一致するものとしての精神集中である。これは――この世的人間的なマーヤーの初めから――絶対であるとともに無限であるアートマの完全な自覚を意味する。
 教会の教父たちに従えば、「神が人となったのは、人が神になるためであった」。大胆不敵でありつかみづらい公式であるが、ヴェーダ流に言い換えると、現実が幻想となったのは、幻想が現実となるためである、となる。これこそまさに、啓示と啓示する者、ダルマとアヴァターラの定義にほかならない。


 物質主義と反知性主義の決定的な誤りは、私たちの生の日々の経験が、測りがたいほどに、人間の智の発達の下にあるということを見落としていることだ。もし物質主義者が正しいのであれば、この智は解釈に困るほどの贅沢である。絶対がないのならば、それを把握する能力には何の原因もないことになる。絶対の真理はまさに私たちの精神の本質と一致している。様々な宗教は、私たちの最深の主観性に含まれるものを、客観的に実現する。啓示が大宇宙にあるということは、つまり智が小宇宙にあるということなのだ。超越的なものは世界に内在する。さもなければ、世界は存在しないだろう。そして、内在的なものは個人に関しては超越している。さもなければそれは個人を超えることがないだろう。
 人間の智の領域について語ったことは、自由意志がその本質的目的の超越性を証明するという意味において、意志にも応用できる。その目的のために人間は創造されたのであり、その目的あるがゆえに人間は人間なのだ。人間の意志は神に応じてある。神において、神を通してのみ、意志は完全な自由である。
 人間の魂について、同様の観察もできる。私たちの魂は神を証明する。なぜならそれは神性に応じてある、それは共感、無私の愛、寛容によって―それゆえ、結局の所、客観性によって、それ自身を超越する能力によって――そうであるからである。
 これらの人間の本性の基礎――神性の似像――の中に、「永遠宗教」は根を持つ。


 「永遠哲学」の最も直接的な教義的表現は疑いなく、アートマ、マーヤー、Tat tvam asi(汝がそれである)という諸概念を持つアドヴァイタ・ヴェーダンタである。しかし、この教義は、様々な形態で、すべての偉大な宗教のエソテリスムの中に、場合によっては散発的にではあるが、見出される。このことは、すべての正常な―従って本性的に正統な―すべての宗教が、それ自体永遠の智慧の間接的象徴的な表現であることにおいて、必然的にそうなのである。私たちは先に、キリスト教を要約し、同時に「永遠宗教」を表す教父の公式を引用した。「神が人となったのは、人が神になるためであった」。イスラームにおいては、強調点は神の顕現の神秘に置かれない。神の一性、それゆえ、本性的にそこに含まれる諸結果とともに、神聖なる現実の神秘に、強調点は置かれる。これについての根本的表現は信仰告白である。「神(真の現実)以外に神(諸々の現実)はない」。イスラームにおいて、救うものは、まずは神の顕現ではない。救うものは、神の一性を、智による受容である。その上で、ここからすべての諸結果が引き出されるという事実を受容する。
 真の現実を識別すること、それに精神集中すること、正しく言えば、私たちに接近できるかぎりにおいてそれに精神集中すること。それが道であり、それのみがある。キリスト教では、真の現実は――人間の救済の観点によって――あたかもその人間的顕現、キリストによって吸収されたかのようである。精神集中は、キリストとの一致を通して、そのために役立つすべての形式の祈りと修道を通して実現される。それぞれに応じた恩寵を与える秘蹟も忘れないように。道徳的順応はへりくだりと愛を要求する。この点でキリスト教は、これらの徳を与える、独特の感情的色彩によって以外に、他の精神的観点と区別することが出来ない。(原註1)


(原註1)秘蹟、使徒継承、口伝、最初の七公会議の決定はキリスト教にとって本質的である。多かれ少なかれ、これらの諸要素を拒否することによって、プロテスタンティズムは形相的異端となったように思われる。しかし、見逃してはならないのは、この運動は私たちが「精神的元型」と呼ぶだろう摂理の結果であるという事実である。その法則は外形的伝統に必然的に伴うわけではないが。洗礼と、聖書、信仰、祈り、道徳に基づく厚い敬虔は救済にとって十分である。少なくともそこには世俗的放蕩はない。この留保は、もちろんカトリックにも同様に適用される。ともかく、もともとのルター主義、カルヴァン主義を、その後の「リベラルな」プロテスタンティズムの欠陥について訴えてはならない。ルター派の敬虔の頂点においてキリスト教エソテリスム、すなわちベーメとその系列――薔薇十字団も忘れないように――が開花したという事実を見逃してはならない。


(つづく)





テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
プラダ トート
フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(1) Logic and Metaphysics /ウェブリブログ ...続きを見る
プラダ トート
2013/07/10 02:33

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
フリッチョフ・シュオン「永遠哲学」(1) Logic and Metaphysics /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる