Logic and Metaphysics

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zoom RSS フリッチョフ・シュオン「真理と現前」(2)

<<   作成日時 : 2011/04/10 19:56   >>

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 もしキリストがキリスト教徒にとって現前の真理、つまり、真の現前、唯一の神の真の現前であるならば、反対にムスリムにとって預言者は真理の現前であり、彼のみが純粋で全的な真理、真理そのものを現すことになる。これが、他の言説に目を向けないムスリムにとって、ムハンマドが「諸々の使徒」の中で最も偉大なものである理由である。「この真理、この預言者」とムスリムは主張しているようなものである。その一方、キリスト教徒にとって、反対に真理はまったく神―人の無比性に依存している。
 ムスリムにとって、絶対者の真理のみが救う。それゆえ、その全ての面で、キリスト教における現前の要素を減じたり低下させたりする傾向がある。他方、キリスト教徒にとって、現前のみ――ないしこの現前――が救いの効果を伝える。そこには、「プラトニズム」の形態、言いかえれば、自由化する真理に基づく観点のどれをも過小評価したり拒否したりする傾向がある。
 イスラームにおけるムハンマドの卓越性――これまで示唆してきた、少なくともその最も根本的な関連における論理的動機――は結果的ないし付随的に、偶然的にであり、イスラームによる彼らへの崇敬にもかかわらず、ムハンマド以前の使徒達の過小評価という奇妙な傾向をもたらしている。この特徴をここで言わなければならなく感じるのは、スーフィーの作品や(註4)、クルアーンの註釈にそれが現れ、その痕跡はいくつかのハディースにさえ見出されるからである。(註5)西洋アラビストの側の速過ぎる憤慨に機先を制するには、宗教とは仏教の用語で言うウパーヤ(註6)であること、この理由により、客観的には不適切でも、にもかかわらず、その効果によって宗教が役立ち、正当化される宗教的格言にとっては論理的に適切であること、これらを思い起こすべきである。
 他の観点から、キリストや聖処女への残念な意見に関して、一方で、他の宗教的観点から自身を守るというすべての公共の必要性――そこでは、人間の集団性は彼らがそれであるところのものであるので、目的が手段を正当化する――を、他方で、キリスト教の神人同型説に関するイスラームの側での拒絶を考慮に入れなければならない。卓越的被造物に与えられた「神の母」という称号のような表現は形而上学的な護教的省略なのであるという主張を成すことができる。しかし、公共的領域上で、その大胆さや軽さのために犠牲にされる微妙な註釈が不在である中で、この表現は絶対者のすべての形而上学を停止し、私たちの、神の絶対性の直接的で完全で、効果的な気づきの弱点を示す。というのも、現象も神である――これは矛盾である――この場合、神は母を持たない、そうでない場合は、神は母を持つが、この場合はそれは神ではありえない、少なくとも、それが母を持ち、仮説の当初の矛盾を捨て去る限りで。この仕方で絶対者を低める――ムスリムが言うように――としても、相対的なものを低めるならば憤慨する必要はない。絶対者とその栄光のためにのみそうしているのだから。(註8)
 ムスリムは、キリストの処女降誕から不適切な神学的結論を引き出していると非難されない。しかしながらムスリムは、唯一の救い主の歴史的降誕以前は「地獄」にいるものとして、エノク、モーゼ、エリヤの昇天はキリスト教徒にとって意味がないと言い返すかも知れない。もし人が、ムスリムは真理という要素――この場合、現前という要素にある危険と思われる面に有利なものとして超越を強調する――の名において極端な神学的証明書を手にしているという意見に属するならば、同じ理由で、キリスト教徒は現前の要素を好み、超越の形而上学的結果を犠牲にする多くの自由があり、このゆえに、真理の要素を軽視する。好むと好まざると、一般的な仕方で、ウパーヤは、一見法外に見えるが、最終的には人間の本性の事実によって説明され、正当化できる権利を持つ。
 一言で言えば、キリスト教徒とムスリムの間(註9)の誤解は基本的にここにある。キリスト教徒にとって秘蹟が真理として役立つ。その一方、ムスリムにとって真理が秘蹟として役立つ。

註4・イブン・アラビーの『フスス・アル―ヒカム』はこの独自の例の幾つかを提供している。
註5・おそらく正統的ではないが、どういう場合にしろ広まっており、内容に関しては否定されていない。
註6・ウパーヤとは天が魂を勝ち取ろうとする「効果的手段」である。魂は幻想であるから、「手段」も必然的に幻想的なものとなる。そこから教理、手段、宗教、あるいはむしろそれらの様々な面の非整合性がある。
註7・この矛盾はもちろん、文字通りの意味のみを含意し、その底にある神秘は含まない。しかしながら、公教にとって、文字通りの意味が重要である。
註8・イスラームの伝統によれば、太陽と月は、人によって崇拝されたために、時の終わりにおいて地獄へ投げ捨てられる。そのような意見は、ヒンドゥー教の観点とすべての他のの神話的ないし、彼らの側で、私たちが様々な機会に現象の形而上学的透過性と呼ぶものに基礎付けられた「異教の」観点の反対の所にある。しかしながら、この原理は主観的には多くの者に歪んだ応用を惹起するということは知られねばならない。――私はここで逸脱であり単なる乱用ではない偶像崇拝を念頭に置いているのではなく――例えば、神人同型的有神論が、聖職者的完成を可能にするすべての自力的衒学と結びつくマハラージたちの擬似儀式的神化の領域における。イスラームの偶像破壊的反応は、すべての相貌において偶像崇拝に向かう。同じコインの片面として、内在が超越と競合するところではどこでも、内在に対する超越の名が持ち上がる。エソテリスムのみが、この限定する傾向を原理的に避けうる。
註9・ないし、必然的に留保あるいはニュアンスつきではあるが、キリスト教徒とプラトニスト達の間。

(つづく)


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